二十.


 宏幸は我も忘れて皓司の裸身に見入る。
 『凄絶』という他に適切な言葉が浮かばないほど、凄絶なものだった。

 そこにあるのは、無数の───創傷。
 紛れもなく刀によって刻まれたものと判る、夥しい一文字で埋め尽くされた。

「……こ、皓司さん……」
「はい?」
「…………」

 宏幸も子分も、それきり何と言っていいか分からなくなる。
 仮面の如く完成された貌を持ち、いつ何時も隙なく合わせられている着物の襟の、その下には、こんな生身が潜んでいたのか。他人の血は知っても、自分の血は知らない人だと思っていた。
 この世には、生まれながらにして天の才を備えられる人間がいる。
 斗上 皓司という男はまさしくその筆頭に数えられる人間だろうと、疑わなかった。
 それが何と驚け、である。

「皓司の身体、凄いだろう」

 面白そうに言ったのは浴槽に浸かる隆で、それを目の当たりにして口内の渇きを覚えた宏幸は、いつもの調子で頷ける心境になかった。

「ああ、私の身体に驚いていたのですか」
「そりゃあ誰でも初めは驚くよ。ねえ、巴?」

 隆は寝ながら湯船に沈みかけている巴を引き上げ、腕を浴槽の縁に置かせる。
 すいません、と寝惚け眼で詫びた巴は、しかし隆の問いかけや前後の会話は意図せずとも聞いていたらしく、掴みどころのない声調で淡々と喋った。

「斗上さんは生来の天才肌だと思ってました。創傷の所以を聞くまでは」
「それは殿下の方ですよ。最初から山の中腹に生まれた人ですね」

 言うなれば皓司は「山の麓の、そのまた外れに生まれたようなもの」だと笑った。山の頂上を終点とすれば、隆はそれに手の届く場所に生まれたという。そしてこの鬼は、まったく手の届かない場所に生まれたのだと。

「根性比べなら皓司の圧勝だよ。俺はそれほど苦労しないで力をつけた人間だから」

 皓司の裸身を眺めながら、隆は自慢するでもなく率直に自分の才能を認めた。

「皓司は、自力でどん底から這い上がった努力家だもんね」
「少しは他力もありましたがね」
「でも根性がなければ、他力を借りても無駄にしかならない」

 何か身に覚えのある指摘をされたと思ったのは宏幸と子分達だけで、圭祐と巴は至極当然だとばかりに頷いている。圭祐は紅潮した顔で皓司の背を見つめ、とりわけ目を引く右肩の古い裂傷を指差して宏幸に言った。

「右肩の大きな傷、いつ受けたものだと思う?」

 見るからに殺意のある一太刀、といった具合の裂傷は、下手をすれば腕まで落ちかねないようなぎりぎりの部分で止まっていた。それは皓司の運の良さゆえだったのか、相手の意図した加減ゆえだったのか───どちらとも思えた。

「……十代の頃、っスか?」

 おずおずとその背に訊いてみると、皓司はちらりと振り返って微笑う。

「十にもならない子供の頃ですよ」
「うっわ……よく死にませんでしたね……」
「実はその時、死にました」
「……はい?」
「今の私は呪術によって二十年以上も生かされている死霊の」
「だぁっ、皓司さんが言うとシャレになんねえ! 高井宏幸、お背中流しますっ!」

 まるで生気の感じられない肌色は、まかり間違って死霊云々の呪術説が本当であっても笑うに笑えない。透き通るような雪肌とは違う、しかし病的というほどでもない色。他人の過去に頓着しない宏幸でも、この時ばかりは皓司の肌の白さと創傷の所以について知りたいと思った。
 最初から何でも持ち得る完璧な人だと偏見していただけに、生身の凄絶さは本来のそれよりも幾許か惨たらしい形で、宏幸の目に映っていた。




 澄み渡る空、雲ひとつ無し。
 能天気な虎卍隊を反映したような青空の下、赤鉢巻の集団は箱に詰められたコケシのように整列して、我躯斬龍の前に立っていた。朝食を済ませてから僅か半刻後のことである。

「一昨日よりは腕を磨いたのでしょうから、一人ずつ拝見させて頂きましょう」

 二日で腕が上がれば苦労はしない───そんな苦渋の表情を浮かべた虎卍隊の面々を見渡し、皓司はハテと首を傾げた。

「各々の欠点を克服する為の時間は丸一日以上与えたはずですが。どうしました」
「……た、隊長。お言葉ですが、昨日は鍛錬なしって話だったんじゃ……」

 てっきり打撲傷回復の時間を与えてくれたのだと思っていたが、皓司という名の鬼は一隊士の質問をにこりともせずに聞き、能面のまま回答した。

「普段通りに過ごせと申し上げただけです。鍛錬なしとは誰の言葉ですか」
「……だから、普段通りに過ごさせて頂きました、けど……」
「でしたら、ご自分の欠点を克服する術の一つ二つは見出せたのでしょう」
「…………」

 話が違う。
 隊士たちの顔にありありと批難めいた色が浮かんだ。当然、皓司はそれを見逃すまでもなく、隊士たちが何を勘違いしているのかも十分すぎるほど分かっている。
 組んでいた腕を解き、皓司は問答無用で隊士の襟首を掴むと我躯斬龍の中に連れ込んだ。

「普段の虎卍隊は何もせずにタダ飯食いですか。結構なご身分ですね」

 すでに泣きが入っている隊士に得物を取らせ、皓司自らも得物を抜く。鞘走りの音がギロチンの滑り落ちる音のように聞こえ、檻の外でコケシになっている隊士たちは我知らず首元を擦って脂汗を拭った。鬼の言わんとするところが、ようやく分かったのだ。

「今月は中一日を挟んで朝のみ私と手合わせをして頂こうと考えておりましたが、変更しましょう。当面は毎食前に全員ここへ揃って頂き、二時間の鍛錬をする事。食事までの二時間ですので朝は五時から開始です。昼は十一時から、夜は五時からと致しましょうか。毎時遅れた者は食事を取らずに廊下で待機。重症を負った者は一日免除しますが、日当も控除。前日より僅かの進歩も見られない者は、三日間だけ毎夕食後に私が指導致します。それでも無駄と見えたら翌朝までに辞表を提出の事。宜しいですね」

 よろしくない、横暴だ、と抗議できる者は一人もいない。
 鬼の口から淀みなくつらつらと語られれば、それはかつてないほど地獄のスケジュールに聞こえた。しかしよくよく計算してみると、その時間配分はまったく無理を強いていないのだ。自由時間はきちんと含まれ、睡眠時間を削られたわけでもない。
 それなのに何故こんなにダメージが大きいのかと言えば、日頃の怠けが祟ったのである。

 虎卍隊の頭上で不機嫌に鳴り響いていた雷が、遂に地上へ落雷した朝だった。




 一週間後、隆は巴を誘って我躯斬龍の見学に出向く。
 それまでも何度か見に来たが、頃合いを計って巴を同伴した事には意味があった。

 毎回特訓メニューを変えてはあらゆる状況に備えさせ、雨が降ろうが槍が降ろうが、鬼のシゴキが止む事はない。この七日間に辞職を強いられた者、逆らって命を落とした者、共にゼロ。本気で皓司と向き合えば嫌でも尻に火をつけられ、その場に立っているだけでは済まされないのだ。

「どうだい。巴」

 無心に我躯斬龍を眺めている巴へ問うと、彼はゆっくりと目を瞬いて頷いた。

「たかが一週間、されど一週間ですね。隊士の動きが格段に違う」

 特に宏幸が、と呟き、巴は滅多に見せない好奇の混ざった微笑を浮かべる。

「斗上さんも変わったような」
「先代に何か言われてきたんだろう」

 その辺は大方の検討がついた。
 皓司の中で常に暴れ回っている野心という名の鉄砲玉は、この程度の掌握では射程距離内にありすぎて面白くもないだろう。それを見抜いている浄正が、見抜かれている自覚のある彼に与える本当の任務といえば。

 とても自分にはできない事だ───隆は密かに自嘲した。
 やろうと思えばやれる事。
 しかし、やるには及ばない。やるだけ無駄骨なのだ。
 自分には守りたいものがある。生きる理由は全て、それに終結している。それこそが自分の野心だと言ってもいい。それを守り通すには、皓司が今も虎視眈々と睨み続けている獲物はむしろ目障りだった。彼が捕まえてくれるのならそれに越した事はない。


 ───目的は違えど、標的は同じですからね

 皓司が隠密衆に戻ってきた時、それとなく抱擁してみると彼はそう囁いた。

 ───その為には、まず俺をここに貼り付けておこうって?
 ───当然です。殿下がいなければ話になりませんよ

 あんたを利用するぞ、と平気で口にする皓司がたまらなく好きだと実感した。
 お互いを利用するのはお互い様だ、というわけだ。


 班同士の対戦を命じて刀を鞘に収めた皓司が、涼しい顔で歩いてくる。

「お二人揃って見物に来て下さったのですか」
「やだなあ、見学だよ。見物というほど安くはないだろう」
「見学と言われるほど高くもありません。現状では、ですがね」

 いずれは他の二隊の名など虎の下に敷いてやると、暗に脅された。張り合いが欲しいのは自分も同じで、龍華隊を率いる事に未だ自信が持てないらしい巴を連れてきたのだ。

 新たな三人衆。
 誰にも不足はなかった。


 あとは、獲物に喰らいつくのみ。








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