十九.


 数人交替で風呂に入り始める、大渋滞の刻。
 以前に沙霧からもらった石鹸という泡立つ石らしき物を手にした冴希は、鼻歌を鳴らしてガラリと風呂の戸を開けた。

「ん……?」
「……ぬぉっ!」

 開けた途端、中で最後の砦を脱ぎ捨てた直後の浄次が奇声を上げて後退り、咄嗟に掴んだ籠で下半身を隠す。そんなものは頼まれたって誰も見たくない───籠を下に当てたままウンともスンとも言わない浄次の正面で、冴希は愛用の手桶を脇に抱えて踏ん反り返った。

「オトコはいつでも入られるやろ。ここはオナゴ優先やで」
「後から来て何を言っとるか! さっさと閉めろ!」
「閉めてええんか。ほな」

 後ろ手にピシャッと戸を閉める。カゴを手放せない浄次と仁王立ちの冴希は、わずか四畳ほどの脱衣所で睨み合った。浴場は広いが脱衣所は狭い。隠密衆のねぐらとして衛明館を受け継いだ時、脱衣所のあまりの広さに無駄を感じた数代前の御頭が縮小したのだという。
 真冬の脱衣所、籠の加護も虚しく小刻みに震え出した浄次は、鼻を啜って冴希を睨む。

「そういえば貴様……今朝の頓服薬は何の真似だ」
「あーあれな。花粉症やいうから、春に備えて免疫つけさしたろ思うて」
「七種類の薬草がどうのと聞いたはずだが」
「そうでも言っとかんと自分、飲まれへんやん」

 たかが花粉でぶしぶしやっていては、春先に多発する遠征で苦労するだろうと思って荒療治を試みたのだが、感謝どころか批難の一方だった。感謝されたいと思っての事ではなかったが、これはこれで頭に来る男だと冴希は思う。

「なんで怒るんよ? 花粉も敵やと思えば、逃げるより勝ちたいやろ」
「花粉は云わば自然の災害であって、敵ではない」
「理屈はどーでもええわ。いま克服しとかんと後で泣くんはジョージやで」
「……ふーむ」

 何がフームか。ことは至って単純な話であり、悩むまでもない。
 虚空を睨んで思案している浄次を眺め、冴希はつかつかと歩み寄ってその手から籠を奪った。

「考え事は自分の部屋でやってな。はよ出てった出てった」

 浄次の衣服をごそっと取り上げて腹に押し付け、廊下へと締め出す。そして素早く服を脱ぎ、石鹸と桶を抱えて満足そうに浴場の戸を開けた。

「ん……?」
「……あの、ぼ、僕の服、取って下さい……」

 裸の身を抱くようにして屈んでいる深慈郎が、戸の脇で背を向けたまま硬直していた。




 宏幸の夜の行動は、緊急事態を除いて順序が決まっている。
 夕飯を食べたら食休みに縁側で寝転ぶ。次に、隊士を捕まえて博打と洒落込む。春と秋は城下へ出る事もあるが、夏と冬は軽装では済まないので大人しく引き篭もるが策。また滅多にないが素寒貧の場合は、倍利子をつけて返せという高利貸の相方に小判一枚を借り、それで十倍以上の儲けをやってのける。小判二枚の返済など屁でもないのは当然だ。
 その後、空き始めた頃を見計らって風呂に入るのが彼の日課であった。

 子分数人を引き連れ、ぎゃあぎゃあと風呂場に向かった宏幸は、灯りが点っている脱衣所に入って衣服入りの籠を数えた。所詮は男の巣窟、誰が入っていようと見苦しい一物はそこにあって然るべき。照れる方がおかしい。

「先客は三、四人くらいか。上等上等」

 浴場面積との比率を計算し、窮屈ではないと判断してから服を脱ぐ。当然ながら宏幸と子分の間には照れも恥じらいもなく、手拭いは肩に、一物は股の間に公開したままである。

「おっじゃま〜」
「やあ、いらっしゃい」

 手前の洗い場にいた隆が、ぽんと桶を投げてきた。長い髪をぐるりと頭頂部で結い上げている裸の釈迦を前に、宏幸はその桶を受け取り損ね、カコーンと虚しい音が響く。

「た、隆さん……お久しぶりっス……」
「えー? 毎日会ってるのに何だい?」
「いや、風呂で一緒になるのが久しぶりだと……」

 成る程と笑った隆は、入口を塞ぐ宏幸を蹴って入ってきた子分達にも桶を配った。子分達は素早く浴場を見渡し、濃い湯気の中に二人の頭を見つける。

「高井さん、高井さん! 巴御前の頭があるぞ!」
「身体もついてるけど」

 宏幸の頭を掴んで回した子分の声で、浴槽の縁に頬を付けて寝ていた巴がむくりと起きた。風呂に浸かってまで寝ている彼もどうかと思うが、身体もついていると言って立ち上がろうとした彼の天然さもどうかと思える。巴の隣で一人笑い出した圭祐を見つけると、浴場で欲情しかけた子分達は一斉に手拭いを下に当てて目を逸らした。

「青山さん、部屋の風呂はどうしたんスか?」
「ああ、あるよ」

 沙霧の部屋を引き継いでいる巴には、沙霧が取り付けた個室風呂がある。普段はそこで済ますのだが、今日は二人に誘われてこっちに来たのだと巴は言った。宏幸と子分は納得して隆の後ろに連なり、一列になって背中を流し始める。

「殿下にお圭さんに巴御前。こりゃ天国ですな〜高井の旦那ァ!」
「お三方に乳つけたら最高ですな〜高井の旦那ァ!」
「乳がなくても花園には違いねえな〜高井の旦那ァ!」

 上機嫌で互いの背を洗う子分達の気持ちは分からないでもないが、宏幸はじっと隆の背中を見て渋い顔をした。この頼もしい体躯に女の乳───そんな不埒な事があってたまるか。まだ自分に乳があった方が許せる気がする。

「宏幸は力があるから気持ちいいねえ」
「そうっスかー?」

 隆が女だったら、こんな風に一緒に風呂へは入れまい。
 ただそれだけの理由で、やはり隆は男でいいと勝手な満足を得た。隆はにこにこと頬を緩め、浴槽の方に声をかける。

「皓司も背中流してもらったらどうだい? 宏幸は気持ちいいよ」

 互いの背を洗い流そうとしていた手が示し合わせたようにぴたりと止まり、桶の中の湯がたぷんと揺れた。浴槽には、圭祐と巴しかいなかったはず───

「皮が剥けそうなほど殿下に洗って頂きましたが、その誘惑には負けますね」

 ざばりと水中から(・・・・)現れてそう言ったのは、水も滴る鬼の首だった。

「引っかかったな、皓司。俺の勝ち」

 鬼の登場に白髪化した子分達は、隆の嬉しそうな声を辛うじて耳にする。この二人はどこまで二人の世界を楽しんでいるのか、それはいいとしても他人に通じない場面が多すぎだ。

「こっ、皓司さん! 何してたんスか!?」
「殿下と賭けをしていました」

 そうではなく水中で何をやっていたのだと聞いたつもりだったが、次の答えを聞いて宏幸は納得すると共にあんぐりと口を開けた。

「殿下が洗い終えて浸かるまで水中で息を止めていられるか、という賭けだったのですが、思わぬ伏兵をだしに使われて負けてしまいました」
「ふふっ、一年早生まれの年の功だよ」
「何をおっしゃるやら。狡猾さの違いでしょう」

 私のような正直者を釣り上げるには見事な一手でしたが、などと恍けた皓司は、額に張り付いた髪を掻きあげて浴槽から上がる。左手に巻かれている包帯を掌ごと握って軽く水気を切ると、立ち上がった隆と並んで宏幸を見下ろした。下品で恥知らずの自分達とは違い、二人の砦はきちんと腰を一周している。

「殿下のお墨付きですから、軽くお相伴に預からせて頂けますか」
「……あ───そ、そりゃ、でんでん、構いませ……」

 白磁のようなその肌色とは対照的な、生々しくも凄絶な裸身が、そこにあった。




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