番外 ― 黙契 ―



 トントン、トントントン……

 冬の朝陽はまだ遅く、薄暗い庭はしんと静まり返っている。
 上野に腰を据えた葛西邸では、早くも朝餉の支度が始まっていた。
 俎板を叩く小気味のいい音を聞きながら、浄正は着流しの帯を締めて欠伸をする。

 ───トン……

 庭に面した障子の向こうに、影が現れる。枠を小突いた手が再び足元に戻るのが見えた。
 浄正はぼんやりと障子を眺めて腹を掻き、またひとつ欠伸を漏らす。

「何だ」
「今時分、虎卍隊の普世が逢坂へ引き上げました」

 思わず手が止まった。

「……それで?」
「私書も確認してございます。よれば、逢坂の諜報に回るとの旨」

 私書。つまり辞表の中身も筆跡も確認済み、という事。
 ぽかんと開けた口もそのままに、浄正は言葉を失った。

 懼れていた時期の到来が予想よりも早いと焦る傍ら、じゃあこうしようと即座に言い出せる地位にはもう無い事を、じわりと実感する。否、『先代御頭』という身分はいつでも権力としての用途を果たし得るが、簡明直裁では意味がない。それでは何もかもが駄目なのだ。
 最悪の時期が来ると分かっていたのだから、策は無論考えてある。
 しかし、しかしだ───

「ご用命無ければ、これにて」

 現実に引き戻された浄正は、口早に「ご苦労」と告げた。影が消える。



 さて困ったぞ、と顎を擦りながら室内を徘徊すること数分余り、いつものようにつまみを手にした皓司が入ってきた。
 家内のりんが起きるのは日が昇ってから。それまでの間に皓司は囲炉裏に薪をくべて居間の座敷を暖め、自ら台所に立って朝飯を作り、早起き体質のせいで小腹が減ると我が儘を言う浄正の為に簡単な前菜を拵える。器用すぎて厭味な居候だ。
 主がうろうろしているのも気に留めず、皓司は熱燗と小鉢の載った盆を床に置き、黙ってその手前に座る。普段は盆を置いてさっさと居間に行くのだが、そうして座ったところを見ると、浄正は潔く観念するしかなかった。

「ちょいと、話がある」
「そのご様子でしたので」

 腰を下ろすと、澄ました顔で盃を差し出される。独りならば手酌で呑む酒も皓司に取らせたとあっては、ますますやり辛くなった。並々と注がれた盃を傾け、浄正は慎重に口を開く。

「今しがた、弥勒が辞めて逢坂に帰ったらしい」
「然様ですか」
「小僧が一匹抜けた所で影響はないが……」
主糸のほつれ(・・・・・・)はすでに手遅れ、糸屑一つとて致命的ではありましょうね」

 懼れていたのはまさにそれだった。
 主糸のほつれとは、半年前の沙霧の辞職。その後は語るまでも無く、隠密衆という着物は使われる度にずるずると糸を垂れ、終いには着物の形すら成さなくなる。
 完全にただの布となれば、幕府はお終いだ。
 ほつれを直すなら今しかない。またほつれてしまうような細糸ではなく、それこそ容易く切れない鋼の糸でも宛がわなければ、隠密衆は数年と待たずに塵と消えるだけだ。

「皓ちゃん……」
「……承知致しました」

 盛大な溜息を落として立ち上がった皓司を見上げ、浄正は面食らった。手にしていた空の盃がぽとりと落下し、浄正の膝に当たって畳へ転がる。

「まだ、何も言っとらんが……」
「お手間が省けて何より。面倒が起きてからでは私も付き合いきれませんので、即刻参ります」

 言うなり足早に部屋を出て行った皓司は、僅かも経たずに荷物を揃えて戻ってきた。浄正はつまみの前菜にも手をつけず、呆然と座り通している。

「不要の私物は置いていきます。邪魔でしたらお手数ですが処分して下さい」
「……いや」
「朝餉は居間へご用意してありますので、軽く温めて召し上がって下さい」
「……うん」
「今後の賄いその他のお世話については、人の手配を致しましたので」
「……早いね」
「奥方様にはくれぐれも私から宜しくとお伝えを」
「……勿論」
「それから、穂積大老のお申し出は受けられるのでしょう?」

 厭味なく付け足されてしまったが、先日大老の穂積とばったり出会って頼まれた事については、皓司にも話してある。やる気があるなら城へ来てくれと乞われた期日は、明日まで。
 件の話はここ数日考えていたところだが、こうなっては定めと思うしかなかった。

「明朝、城へ上がるつもりでいる」
「それはようございました。御年の波もありますから、ご無理なさらずに」
「んな心配をされるほど俺は年食ってないぞ……」

 そうでしたか、などと相変わらずの恍けっぷりを見せられ、浄正は苦笑する。



 見送りは結構だと言って再び部屋を出て行こうとする皓司を、咄嗟に呼び止めた。
 言わずとも全てを汲み取る相手とはいえ、このままでは示しがつかない。そんなものは必要ないと思われているだろうが、浄正は敢えて身を正し、振り向いた皓司と目を合わせた。

「すまん」

 両手をつき、額が触れるなら触れてもいいと思う程まで、頭を下げる。
 彼に背負わせたのは、たった一つの糸屑拾いではない。ほつれの修繕でもない。

 背負わせたのは他でもない、浄正だけの私欲。
 その形である、隠密衆の過去と未来。

 肝心の大黒柱は、とうに腐って折れかかっている。
 完全に崩れ去るのも時間の問題だと分かっている。
 それが予想以上に早まると知った今、打つ手は巨大な釘と別の柱しかなかった。
 自分が土俵に上がったのでは、今日まで黙ってきた意味がない。
 いずれこんな日が訪れるだろうと覚悟し、策も考えていた。
 だが願わくば来てくれるなと一心に目を瞑ってきた四年間は、無駄に終わったのだ。
 後戻りもできず、己の見誤りも甚だしく。
 そして、時は二度と戻らない。

「すまん。皓司」

 求められれば何度でも詫びる心はある。否、詫びる心しか無かった。
 彼の意思を無視し、自分だけの利を得ようとしている、この躰には。

「さて。何を詫びられねばならないのでしょうか」

 通りのいい声が、部屋の中央まで滑らかに響いてくる。

「そのようにされては、私も立つ瀬がございません」
「今さら面目潰れと言われようが、最初からお前を無視したのはこの俺だ」
「確かに無視しては下さりましたね。それはもう、清清しい程に」

 憤りのやり場も時間もないだろう皓司は、そう言って襖を閉めた。
 歩いてくる気配が乾いた空気に伝わり、浄正は低頭したまま息を押し殺す。
 代償として何かをくれと言うならば、この命さえくれてやるつもりだった。

「やはり御年を召されたようで。耄碌もいいところですよ」

 二つの意味で、頭が上がらない。

「しかし納得されぬご様子ですし、説き伏せねば私も一向に発てませんから」
「都合のいい話だと分かっているが、代償なら何でも払う」
「ええ、それを頂きたいと申し上げるところでした」

 頭の真上に座る気配。

「と言いましても、代償はもう頂戴しております。それが少々望みの形と違うので」

 また突飛で不可解な事を言い出され、浄正はじれったくなった。皓司が何をもって代償と受け取ったのかは知らないが、望んでいたものと違うのなら、何にでも取り替えてやる。
 謎掛けのような会話を楽しむ皓司の次の言葉を、黙って待ち続けた。



「されば、詫びよりも気の利いたお言葉に代えては頂けないかと」

 その瞬間、浄正は畳に額を打ち付けた。
 吹き出しそうになるのを必死に堪え、彼の目前も構わず肩を震わせる。
 くつくつと、我慢してもしきれない忍び笑いが喉から漏れていく。

「……いや、参った。参りました皓司様」
「ようやく気付かれましたか。貴方ともあろう御方が」

 身を起こして皓司の澄まし顔を見、また吹き出しては涙が止まらなかった。
 脇に下げた盆を引き戻し、転がっている盃を拾う。袖で軽く拭って皓司の手に押し込み、ぬるくなっている燗を取ると、溢れるのも気にせずたっぷりと注いだ。

「ほんと耄碌したわ。お前の言う通りだ。そら、飲め」

 皓司は顔色ひとつ変えず、ゆっくりとそれを飲み干していく。
 唇から器が離れたのを見届けてから、浄正は盆を退けてずいと一歩下がり、再び身を折った。

「よろしく頼む─── 皓司」

 詫びの言葉で満足する程度の器量だったら、自分もこの日に備えて彼で策を立てようとは思わなかっただろう。そんなつまらない男ではなく、そんな関係でもなかった事を今更に痛感し、浄正は今度こそ何の後悔もせずに頭を下げた。

 ふ、と可笑しそうに弾んだ息遣いが鼓膜へ届く。

「この器に懸けて─── (しか)と」


 朱塗りの盃が、皓司の掌中で真っ二つに叩き割られた。









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