十六.


 皓司のドッペルゲンガー現象は兄弟の為せる悪戯だったと隊士達が安堵している頃。
 一足遅れて衛明館の門を潜った斗上 玲は、玄関先に立ち止まって屋敷を見上げた。
 ここが隠密衆の本陣───自然と口元が緩んでいく。

 かつて自分が五歳の時、この犬小屋は兄を奪い取った。待てば数日で帰ってくるものと信じていたその兄は、しかしそれきり年に一度も帰って来はしない。便りを出せば一両日内には必ず返事をくれるが、会いに来てくれと頼んでも二つ返事をもらった事は一度もなかった。
 何ゆえに兄は帰郷を拒むのか。
 この犬小屋が悪いのだ。兄を誑かした、この肥溜めの主が。

 その糞主が十年後に先陣を退いた時、兄はようやく帰郷した。十五になっていた玲は素直に喜んで兄を出迎えたが、なんと兄の口から飛び出たのは、またしても予想外の一言。
 『自分も辞職したが、親不孝を承知で家に腰を据える気はない』
 両親と弟妹を前に、兄は何の後ろめたさも見せずそう言ったのだ。つまり、長兄でありながら家元を継ぐ気は今後も無し、と。
 玲はそれを、斗上家への宣戦布告と受け取った。
 兄からの、ではない。
 隠居した糞主からの宣戦布告だ。
 上野の屋敷で妻と二人、世を眺めて遊び暮らしていればいいものを、何をあろう事か兄まで連れ込んでくれた。返して欲しくば奪ってみろというわけだ。
 その雁首をいつ落としてやろうかと機を窺って早四年余りを過ぎ、いざ上野と斬り込んだ昨日の早朝、玲はまたしても予想外の出来事に身を凍らせた。

 上野の糞主は、「兄奪還」を掲げて乗り込んできた斗上の双生児を見るなり、わっと泣き出して───犬の猿芝居は一目瞭然───つい今しがた嫁に出したのだという。
 どこへ嫁がせたのかと聞けば、他ならぬ、この犬小屋である。
 自ら手篭めにしておきながら、何事の理由で兄を廻し者にしてくれるのか。

 どこの犬の骨が兄を誑かそうと、今度こそは江戸を焼き払ってでも相模に連れて帰ると誓った玲は、血筋か女としては些か厚みに欠ける情の薄い唇を歪めて、その扉に手を掛けた。


「玲!」

 ふいに呼び止められ、ぴくりと口端が引き攣る。カラン、と下駄の音が聞こえた。

「門前のアレ、ちとやりすぎだぞ」

 呼ぶ前には足音ひとつ立てず、呼んでから気配共々カランコロンと下駄を鳴らして普通に近づくこの狸。宿敵の糞主だった。

「まあ浄正様。先日は早朝より突然の非礼、お赦し下さいまし」
「無礼はいいが、その手にゃ乗らん」

 物腰たおやかに微笑む美少女を前にして、浄正はぷいとそっぽを向く。その身が分不相応とでもいおうか正装袴であるのを見止め、玲はちらりと本城に目をやった。

「脱税でも見抜かれて将軍御許に引き出されたのでございましょうか」
「ちゃんと払ってます。ていうかお前さん、仮にも兄貴の部下をだな」
「あのような下衆が兄上様の下僕とは……」

 部下を下僕に置き換えた玲は、眉を顰めながら袖で口元を覆う。門を通るなりニタニタと近づいて声を掛けてきた犬の骨。街中でも引っかかった。馬鹿と犬ばかり引き寄せるこの磁力を、どうにか兄のみ引き寄せる極に変えられないものかと考えあぐねているところ、糞主までやってきて。

「───笑止千万ですわ」

 浄正がぽかんとしたのも気にせず、玲は簪の位置を整えて玄関の戸を開ける。

「下衆には下衆の頭目が相応、兄上様でなくともよろしゅう御座いましょう」

 その兄こそが下衆の中の下衆っていうか鬼なんだが、と返した浄正の声は、ぴしゃりと閉まった戸に跳ね返って虚しく空へと消えた。




「高井ー。ねえ、高井ってば」

 面白いものを見つけると黙っていられない性分ゆえか、とりわけ阿呆に見える宏幸を捕まえた凌は、構ってオーラを撒き散らしていた。兄にべったりと張り付き、兄弟の契りと称した接吻まで公衆の面前で強請ったブラコンかと思えば、次にはコロリとこの調子。鬼の弟とは思えないほどの天衣無縫さで飛び回る様は、隊士たちの目にはさながら壊れた皓司のようでもあった。

「あんだよ? 金は損得なしで決着ついただろ」
「金なんかどうでもいいから、遊んで」

 齢十九と聞いたのは聞き違いだったらしい。九歳児のように無邪気な笑顔で「遊んで」などと言われては罵るわけにもいかず、宏幸は口篭った。

「遊ぶったってな、お前と博打すんのはもう御免だぜ」
「大人の遊びはそれしかないの? 他にもあるだろ、色々とさ」
「他にも色々……」

 即座に思いつくのは、博打か、喧嘩か、遊郭か。
 連れションでもあるまいに「仲良く一緒に遊郭へ」なんていうのは言語道断。宏幸とて馴染みの女がいる遊郭の一つや二つはあるが、金にならないばかりか金の玉まで吸い取られる色町にはそれほど食指が動かず、行くなら一人で行く。
 博打の才能は嫌というほど見せ付けられたし、さて残るは喧嘩上等───

「って……てめぇ! なに掴んでやがんだコラ!」
「ふつーだね。うん、ふつーだ。俺の方がもう少し」
「勝手にタマ比べすんな!」

 宏幸の一物を遠慮なく掴んだ凌は、これが大人の遊びだと言って笑った。これが大人の遊びなら色町はいらない。手を動かそうとする変態と格闘しつつ、宏幸は涙目になって皓司に訴えた。

「斗上さん!」
「ハーイ。何ですか」
「お前じゃねえ、あっちの斗上さんだっつの!」

 しかし斗上と呼べば凌が意地悪く返事をするので、宏幸は皓司の元へ直に赴く。その肩には、宏幸の背を上回る凌が覆いかぶさったまま。

「斗上さん! こいつ……や、この弟、いつもこうなんスか!?」
「紛らわしいようなので、私の事は名前で呼んで下さって構いませんよ」
「名前じゃなくて弟が───な、名前……!?」

 途端にそっくり返った宏幸の背から振り落とされた凌が、ぽんと手を打った。

「姓で呼ばれると俺も返事したくなるし、それがいいよ」
「いや……てか、名前だなんて……」
「殿下の事は名前で呼んでいるのに、私の名では不満ですかね」

 さも心外だと言わんばかりに隆の顔を見た皓司は、その相手に「私の名はつまらないのですか」などとすっ呆けた事を訊く始末。

「ほら高井、兄貴が名前で呼んで欲しいって。呼んでくれないとこのまま犯すって」

 図らずも絶妙な兄弟プレーによって板ばさみにされた宏幸は、何故か皓司と呼ぶのを躊躇っていた。否、いつかは名前で呼びたいと小さな望みを抱いていたのだが、突発的にして唐突すぎる発案に心の準備が以下略である。

「と、と、とが……っ」
「それ苗字。名前で呼べっつったじゃんよ」
「ここっ、こ、こここ……」
「コケコッコー」
「やかましいわッ! いきなり皓司さんだなんて呼べるか!」
「呼べたじゃん」

 はたと宏幸の挙動が止まり、皓司の視線とぶつかった。その口元が、優雅すぎるほど底意地の悪い形に緩められる。してやったりの時とはこういう顔かと、宏幸は顔から湯気が出るほど赤面した。天地が転がっても自分はこのテの顔に弱いのだと自覚する。

 ガラにもなくもじもじし始めた宏幸を見て、隊士たちは斗上家の血筋を知った。
 皓司単体が曲者なだけでなく、弟も血に違わずの曲者男。ますます親の顔が見てみたい、いや、できればこれ以上はこの血族に関わりたくないと祈る。他人が餌食になっているだけでも己の心臓に悪い事この上ないのだ。

 かくしてその祈りは天に届かず、扉は再び開けられた───




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