十三.


 存在感もなく独り鼻水と格闘していた浄次は、冴希に呼び止められて振り返る。完熟と言ってもいいほどの赤鼻を啜り上げ、しかし当人は自分の滑稽な顔を知るわけではなく、今日も『威厳溢れる御頭』を演じているところが哀れ以外の何者でもなかった。
 ずいっと差し出された白い紙を受け取り、浄次は訝しげに冴希の顔を見る。

「何だ。辞表ならいらんぞ」
「辞表やったら、大判紙に書いて凧揚げしたるわ」

 自分の力は隠密衆に必要不可欠だと胸を張り、冴希は浄次に勝るとも劣らない態度で笑った。
 沙霧が辞めてから数日は引きこもり症だった冴希も、今では万事がこの調子。つられて辞めるかと思っていたが、その予想は見事に覆された。

「風邪薬や。ごっつ効くで」

 大胆不敵な小娘の口から何が出るかと思えば、どういう風の吹き回しか。浄次は鼻水が垂れ落ちるのも構わず、毒でも渡されたような面で包みを凝視する。

「ほう……木屑と馬の毛で作った風邪薬か」
「何言うてんねん……鼻水と一緒に理性も垂れ落ちたんか。七種類の薬草や」

 親切心の欠片もないような小娘が、わざわざ自分を追いかけてきて風邪薬、だ。
 理性も知性も、我知らず鼻水と共に垂れ落ちようというもの。
 浄次は不審に思いながらも、礼を言ってそれを懐に仕舞った。八重歯を見せた冴希が「ちゃんと飲むんやで」と念を押してくる。それがまた不審を煽るが、浄次は一応頷いて見せた。

「はよ回復して、バリバリ御頭やってもらわんと。ほなな」

 生まれてこの方、これほど不審極まりない親切をされたのは二つとない。
 元気よく走っていった冴希を見送り、浄次は歪んだ笑みを浮かべた。

(その手には乗らんぞ───何の手かは知らないが)

 父親の悪趣味で散々騙されては屈辱の思いをしてきた浄次にとって、人の親切を頭から疑ってかかるのはもはや常識となっていた。父曰く「騙される方が馬鹿なんだ」そうだが、騙す方が阿呆ではないのかと思う。屈折していながらも一本気で面白味に欠ける浄次の性格では、その面白さはさっぱり分からなかった。分かっていないが故に騙されやすい人間の典型である。


 くしゃみを連発しつつ廊下を行くと、玄関先で履物を脱いでいた皓司と目が合った。
 所用で相模へ出掛けると言って朝食後に旅立ったはずだが、早すぎるのではないか。
 いや、と浄次は即座に思い直した。たとえ朝食後に京都へ出掛けて夕方には帰ってきても、皓司なら可能な気がした。有り得ない物事など、彼には有り得ないのだ。

「早かったな、斗上。用事は済んだのか」

 こちらに歩いてきたので逃げるわけにもいかず、浄次は適当に持ちかけた。
 皓司は襟元を直してから軽く頭を下げ、相も変わらずの慇懃無礼な微笑で頷く。

「馬を走らせれば、時間などいくらでも調整できますので」

 さぞや苦労したであろう馬に同情を禁じえない話だ。
 どんな荒馬でも正面から見合っただけで馬に頭を下げさせる皓司の事、ひとたび手綱を握れば絶対服従の威圧は倍増しになるのだろう。何をやらせても完璧である皓司は馬術も並み外れて優れているが、酷使される馬の方はたまったものではない。
 自分が馬でなくて良かったと心底安堵した浄次は、ふと思い出して冴希から貰った白い包みを出した。皓司なら中身の正体が何であるか分かるかもしれない。

「風邪薬と言われてこんなものを貰ったんだが、本当にそうなのか分かるか」
「毒を盛られる覚えでもあるのですか?」

 それはお前の方だろう───浄次は首を横に振り、中身を見てくれと頼む。皓司が包みを開くと、磨り潰された草の粉がひとつまみほど入っていた。それを軽く掻き分け、指先に付いた粉を磨り合わせるようにして匂いを嗅ぐ。

「これは」
「やはり毒草か……?」
「ただの七草ですよ」

 毒ではなくて残念ですね、などと涼しい顔で付け足され、浄次は気抜けした。騙される方が馬鹿とはいえ、騙されなかった時はそれで馬鹿馬鹿しい気苦労をするものだと知る。

「まあ、何だ、助かった。さすが華道の家元育ちだな」
「花は切っても、花との縁は生涯切れないものでしてね」

 なるほど納得の言を返して、皓司は用済みなら失礼とばかりに歩いていった。


 反対方向へ向かった皓司が、片っ端から各部屋の襖を開けるという挙動不審な行動をしている事に、浄次はまったく気付いていなかった。




「おっ、えらい早かったっスね。斗上さん」

 打撲傷のおかげで出掛ける体力がないと悟った虎卍隊は、結局広間で花札を展開していた。

「五光で俺の勝ちーっと。三倍だから、ひーふーみーの十五両?」
「たわけ、九両だ。勝手に割増しすんなよ高井さん」

 鬼を無視して花札勘定とは、いい度胸ではないか。皓司を知る虎卍隊の数名は広間の隅に正座し、痺れた爪先から凍結していく思いだった。いつ刃物の舌が飛ぶのかと肝を冷やしつつ鬼の顔を拝顔してみると、花札が珍しいわけでもないだろうに、皓司は宏幸と子分二人のやりとりを物珍しそうに見ている。
 黙った時が最も怖い───そんなジンクスの元、反省中の生徒よろしく正座している隊士達は懸命に宏幸へとアイコンタクトを送ったが、巻き上げた金しか見ていない宏幸に伝わる術はなく、彼らの親切心は徒労に終わった。

「朝から花札ですか」

 そら来た、と誰もが内心で叫ぶ。いいご身分ですね、などと言われたそばから我躯斬龍へ引きずり込まれ、先一週間は足腰の立たないタコ野郎にされてしまうのだ。
 しかし、鬼は何を思ったか宏幸の隣に腰を下ろした。

「私も混ぜて下さい。掛け金は相場このくらいでしょうか」

 言うなり袖から出した小判の数は、三十枚。
 そんな大金を出してくる皓司も皓司だが、よく袖が底抜けないものだと宏幸は感心する。

「いいっスけど、負けても文句なしですよ。公私混同もなし」
「勿論です」
「そんじゃ俺も三十両賭け」

 鬼だろうと人でなしだろうと、博打は天運がすべてだ。とかく博打の神に愛されていると自負して止まない宏幸は、腕では皓司に勝てないが運の強さなら絶対に勝てると思った。交替した子分が宏幸の脇に座り、残る一人も宏幸と同じ事を目論んで二十両賭けの勝負に出る。

「つーか、斗上さんが博打するなんて意外っス」
「した事はありませんよ。面白そうなので教えて頂こうかと思いまして」

 あの鬼が人に教えを請うとは、明日にでも富士山が爆発するのではないか。この異様な出来事に、三人の回りには野次の垣根が作られていた。
 札を広げて簡単な説明をしていると、我躯斬龍から戻ってきた圭祐たちが垣根に気付く。

「何してるの?」
「や、それがお圭さん! 斗上様が高井さんと花札で勝負するらしいですよ」
「斗上さん? もう帰ってきたの?」

 甲斐をリンチした……ではなく稽古相手になっていた時間は、それほど長くなかったはずだと圭祐は首を傾げた。野次に加わらず縁側で祇城と煎餅を齧っている隆が、圭祐に気付くと面白そうに笑う。疑問符を浮かべた圭祐は垣根の間に見えた三人の姿を確認し、そこで隆が笑った意味が分かった。

「珍しい」
「おれも初めて見たヨ」
「あれ、初めてなんだ?」
「え、ケースケは見たことあるの?」
「あるよ。一度だけ」

 その時は勝ったのかと甲斐に訊かれ、圭祐はまた首を傾げる。

「そんなことよりほら、始まるよ。保くんは見ないの?」

 朝から爪弾きにされてばかりの保智は、興味ないと呟いて縁側に向かった。無言で煎餅の袋を差し出してきた祇城に断り、茶を啜って溜息をつく。

「どうしたんですか」
「いや……別に」

 好奇心旺盛な隊士たちを背に、保智は己の無趣味さを知って二度目の溜息をついた。



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