十一.


 驚愕の一日を経て、衛明館は閑古鳥が啼く宿屋のように静まり返っていた。
 これほど静かな朝もそうあるまいと、隆は井戸の前でのんびりと両腕を伸ばす。

「なんか不気味な静けさですね」

 顔の水滴を拭いながら、巴が寝足りなさそうな目を庭から衛明館へと向けた。一人にしておくと井戸の底に転落しそうなほど寝惚けた風体だったので、彼が顔を洗い終えるまでさり気なく傍にいた隆は、自分の手拭いを折りたたんで懐に入れる。

「これが普通なんだろうけどね。いやはや、慣れって怖いなあ」
「慣れといえば……」

 平素の猪が走るような足音ひとつしない建物を見上げたまま、寝ているのか思案しているのか定かでない巴が呟く。

「虎卍隊は斗上さんのやり方に慣れるんでしょうか」

 誰もが薄々と案じ始めているその事について、隆は「答えはもう出ている」と笑った。
 果たして笑える問題なのだろうかと、巴の視線が建物から隆の顔へと移る。隆は微笑を浮かべて先に歩き出した。

「相手は、皓司だ」

 地面の感触を確かめるように、一歩一歩をしっかりと踏みしめていく。

「慣れるとか慣らすとか、そんな低い崖には立たされていないよ。今の彼らはね」

 温厚な物腰で鋭い洞察力だと、巴は感心せずにはいられなかった。
 自分自身、皓司を知らないわけではない。しかし他人の性格を意識して分析した事のない巴にとって、隆のような洞察力は神業とも思える。人としてはさておき、隊長とあらば周囲の人間を観察して然るべきなのだろうか。
 隊長となって半年、分からぬ事は増える一方だった。



 広間に入ると、部屋の四隅に置かれた火鉢へ炭を入れている早起き組がいた。

「おはようございます」

 隆と巴が揃って挨拶をすると、炭の入った籠をぶらさげた圭祐が振り返る。寝起き半刻内とは思えないほどこざっぱりした顔で、その大きな目を瞬かせた。

「あれ、青山さんが早起きなんて珍しいですね」

 大抵は隊士の半数が起きて賑やかになった頃に目が覚める。確かに今日は早起きだ。何となく目が覚めたのだと言って、巴は火鉢の横に座った。いつもの時間なら室内はとっくに暖まり、むしろ余計な加熱で半袖になる血の気の多い隊士すらいるほどだが、早朝ひと気のない大広間は思いのほか寒い。

「巴。寝惚けていると焦げますよ」
「はい……?」

 火鉢に翳していた手を声の主に引かれて、はたと目を開ける。着物の袖が網の上に被さっていたらしく、火をつけたばかりなのが幸いしたようだった。

「すみません。まだ私服に慣れないもので」

 成る程、と一言納得する皓司に袖の煤を叩かれ、巴は子供に戻った気分で再び詫びる。長いこと隊服と寝間着の往復生活だったせいで、着流しは袖が垂れるという事をすっかり忘れていた。
 この半年、寝起きに隊服を着て廊下に出ては、出くわした隊士に指摘されて着替え直す回数のなんと多かったことか。隊長には規定の服というものがなく、みな普段は着脱の便利さも兼ねて着流しを着用している。私服の持ち合わせがほとんどなかった巴は、私服よりも隊服の方が機能的で楽だと言ってみた。が、隊長なのだから隊服は着るなの一辺倒で御頭にダメ出しを食らっては身もフタもない。
 およそ身分身形に構わない巴としては、隊長役はこんな所でも誤算が生じていた。

 ふと思い立って目の前の皓司を観察してみると、彼は気品が服を着て歩いているような所作でもって、火鉢に炭を投入する姿さえもまったく隙がない。こんな人のどういう所を見て、隆はあの洞察力を発揮できるのだろうかと不思議だった。

「斗上さんは……家で作法を学んだんですか?」
「そうですよ。どうかしましたか」

 当然のように尋ね返され、巴は何が聞きたかったのか自分でも分からず、会話を探した。皓司がふと口元で笑い、火箸を置いて鉄瓶を載せる。

「人の観察というのは意図して量れるものではありませんよ」

 やんわりと、しかし正確に的を突かれて、巴は吃驚した。

「どうして分かったんですか……?」
「今私が言った事そのままです」

 何やら面白そうな話だと気付いた圭祐が、二人に断って巴の隣に座る。隆は卓に置かれた湯飲みに茶を淹れて縁側に移動し、そこから室内を眺めていた。

「目で捉え、耳で聞いた物事だけで他人を推量すると誤解を招くだけです。人を知るには人を見ろと言いますが、見る事すなわち目視ではありませんよ。といって、本能や感性のみで拵えた相手の人間性を自分に植え付けるのも俗物的ですが」

 圭祐がこくこくと頷く傍ら、巴は口元に手を当てて考え込む。

「……漠然としてて答えが分かりません」
「明確な答えがあったら、洞察力など赤ん坊でも身につきますからね」
「つまり、答えはないんですか?」
「ないとは言っておりませんよ。明確ではない、と言っただけで」

 途端に、隆が縁側で笑い出した。

「意地悪で気難しい先生だなあ、皓司。生徒が困ってるよ」

 ひとしきり笑って満足すると、隆は胡坐の膝に肘をついて圭祐と巴を見つめる。

「要するにね、日頃から気配り上手になればいいってことだよ」

 簡単に言ってくれるが、それも習性がモノを言うのではないか。巴と圭祐が曖昧な返事をしたので、隆は難しい話ではないと繰り返して二人の混乱を解いた。

「気配りに必要なのは好奇心だ。周りの人に好奇心を持てば自然にできる。気が利くということは、相手の求めている行動が分かるっていう事だろう? それも洞察力の一種だよね」
「好奇心の塊ならではの説得力ですね。畏れ入りました」
「いやあ、皓司ほど旺盛じゃないよ」
「ご謙遜なさらなくてもよろしいんですよ」
「してない、してない」

 余裕の面積はどれくらいなのか、二人はおよそ日常に悩みや劣等感など露ほどもないといった落ち着きぶりで、冗談を言い合っている。
 気配り上手と褒められる圭祐は、今の話を自分の相方にも教えてあげようと目論んだ。保智のあの不器用極まりない性格もそれでいいと思うが、もう少し器用になれたら本人の長所も周囲に分かってもらえるのではないかと考える。だが好奇心を持ってみろと言ったところで、まず立ちはだかるのはバカの壁ならぬ、不器用の壁。好奇心を持つとは何ぞやから始まるのだろう。

 巴は火鉢に袖を突っ込まないよう気をつけながら、ちろちろと燃える火に手を翳していた。
 年長二人の話が理解できなかったわけではない。素が超のつく天然である巴には、彼らのように計算高く身の振り方を考える事ができないだけだった。これはこれで不器用の惑星である。土壇場での頭の回転や行動力は隠密衆でも一、二を争うほどの彼だが、当人至って無自覚。
 龍華隊が二代に渡って天然隊長に振り回されても統制が取れているのは、大将の未知なる統治力とギャップの癒し効果のおかげではないかと思われた。


「そうそう。昨日聞き忘れたんだけど、虎卍隊はどうだい?」

 夜中まで語り合っていたらしい二人だったが、現在の話題を忘れて過去を偲びあっていたと見える。縁側を挟んで火鉢を突付いている皓司は、取り澄ました微笑を浮かべた。

「血気盛んな者達が揃っている点では、私向けでしょうかね」

 要するに存外やる気満々なのだなと解釈した隆は、変わらぬ皓司の冷静さと野心に感服して懐に片手を差し入れた。
 前に率いていた紅蓮隊と同じだとは言わず、あくまでも現実のままを捉えて受け止める。何かと比較して貶める事をせず、投げやる事もせず、自分に与えられたものは鼠一匹でも初歩から叩き上げる。手抜きも手加減も一切しないので、傍から見れば鬼そのものだ。しかし、これぞ育て上手と言うのだろう。

「ほんと、皓司は野心家だね」
「このくらいでなければやっていられませんよ」
「全ては誰の為でもなく、隠密衆の為、か」

 ぱちっと炭が弾け、皓司の手元で火の粉が舞う。

「さて───そんな大義を掲げられたら、今頃私は聖人君子です」
「あはは、ごもっとも」

 のちに誰からともなく『双璧』と呼ばれることになる二人は、やがて聞こえてきた複数の足音と話し声に耳を傾け、それきり黙った。



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