十.


「由宇姫。聞いていらっしゃいますか?」

 江戸城殿中、女の園。

「はい……? あら、ごめんなさいっ」
「……いいえ。少し休憩を挟みましょう」

 紀伊家より預かっている姫君の守り役に是非と書簡が届き、沙霧は半月前に承諾した。
 隠密衆を引退して半年、招かれるままに先代御頭の屋敷へと転がり込んでいたのだが、住み辛い事この上ない生活に飽きていた折の求人に飛びついたのは言うまでもない。
 別段、先代が毎夜しつこいというわけではなかった。奥方が毎日いびるというわけでもなかった。そもそも奥方とは仲が良かったので、それに苦労したのではない。同じく同居していた皓司とも、問題なくひとつ屋根の下で暮らせていた。

 苦労したのは、意外にも上野屋敷には来客が多かったという事。
 豺狼の群れと恐れられた時代の隠密頭ともなれば、その客々は五人に三人が大名・旗本の何某であるといった顔ぶれで、家にいれば当然のように自分も紹介される。元来ズボラ街道一直線である性格の沙霧には、のんびりと過ごせる場所がなかったのだ。これでは何の為の避暑地か分からんと、沙霧は短期契約で用心棒から便利屋まであらゆる職に就いて難を回避した。
 しかし単刀直入、休日は何も考えず畳に寝転がりたい。
 そうすると屋敷に在宅中となるわけで、結果的に元隊長だ何だと紹介されるの堂々巡りになってしまう。そんな生活を苦ともせぬ顔で四六時中対応している皓司はやはり只者ではないと、沙霧は改めて感慨無量のほどである。


 かくして、よんどころなき姫君の守り役を始めてみたものの。

 勉学を教えている最中、どうもこの姫様は人の話を聞いていないような節があった。否、聞いてはいるが頭の中は別のことで満たされているような顔をするのだ。
 御歳、十二。
 目の大きな愛らしい姫様だが、能無し小娘のままで紀伊に返すわけにもいかない。

「勉学はお嫌いですか?」

 当たり障りのない問いを投げると、由宇姫は切り揃った前髪を揺らして首を横に振った。

「とんでもありません! 由宇は、沙霧にたくさん教えて頂きたいのです」
「それはようございました」

 では何故さっきから上の空でいらっしゃるのだ───
 沙霧の内心の疑問を知ってか知らずか、由宇姫は手にしていた筆をもじもじと弄りながらもあっさりと白状してくれた。

「でも、でも、沙霧のお顔があまりにも綺麗で……」
「……は?」
「お声も美しくて、つい……見惚れてしまうのですっ」

 小さな叫びを上げて自分の顔を覆った由宇姫の前で、沙霧は呆気に取られる。話を聞いているようで聞いていなかったのはそのせいかと納得したが、ではどうすれば良いのだ。能面でもつけて教えればいいのだろうか。

「褒め頂き恐縮にございます」

 ひとまずそんな返事をしてみたものの、天然が服を着て歩いているようなこの姫様の相手は、なかなかどうして難しいものだった。町娘の方がまだ対応の仕様がありそうだ。
 照れ笑いを浮かべた由宇姫が女中を呼び、茶を持ってくるよう言いつける。その時、開けられた襖の向こうから木刀を打ち鳴らす音が聞こえた気がした。

「お小夜殿。今、どたなか剣術をなさっているんですか?」
「ああ、千早丸様でございますよ。指南役の先生が参られまして、早速」

 朝から元気な若様で、と女中が笑う。
 指南役の先生と聞いた沙霧は、小難しい表情でしばし畳に視線を泳がせた。
 木刀の音と共に聞こえた、男の声。
 あの声は、まさか。

「まあ、千早丸様がお稽古を? 沙霧、折角ですから見学に参りましょう!」

 またも突飛なことを言い出した由宇姫に否とは言えず、沙霧はしぶしぶ庭へ行く羽目になる。




 沙霧の予感は、否応なく的中した。
 へっぴり腰になる千早丸の尻を木刀で叩き、姿勢を正せと指導している袴姿の男。
 紛れもなく、葛西浄正その人だった。

 その浄正がふと顔を上げ、群がる老中たちの中に紛れている沙霧を見つける。ぎょっと目を剥いたのも一瞬、すぐに千早丸の方へ向き直ったが、ちらちらと視線を寄越すのが嫌でも分かった。

「由宇姫、お寒うございますから部屋に戻……」
「沙霧、沙霧! あの御方は隠密衆の先代御頭様ですわ!」

 なんと目敏い子なのだろう。
 半月前に初めて顔を合わせた時も、この姫は「隠密衆にいらした貴嶺様ですわよね!」と目を輝かせたものだ。江戸常駐の隠密衆はいわば前線部隊であり、身を潜めて活動する各地の隠密や諜報員のように面が割れて困るという事はないのだが、それにしても、だ。
 異国の血を引く自分が目立つのは前々から自覚しているとはいえ、世間の何たるかも知らないお姫様にずばり名指しされるとは天晴れ。先代御頭まで知っているとなると、相当な隠密衆のファンと言えよう。


「沙霧!」

 ぼうっとしている間に稽古も休憩に入ったのか、気付くと浄正がのしのしと近づいてきた。滅多に履かない袴が足回りを邪魔しているせいで、のしのしというよりはばさばさが正しい。

「お前、なんでこんな所にいるんだ!?」

 それはこっちが聞きたいくらいだ。しかし、浄正が驚嘆する理由は十分承知している。

「何も告げずに上野を出て申し訳ありませんでした」
「一泊の出掛けから戻ったら沙霧の部屋は空っぽだし、皓司に聞いたら『月に帰られましたよ』とかふざけた返事ばかりで何も教えてくれんし、心配したんだぞー!」

 いかにも皓司が言いそうな事だと思った。彼に口止めしていたつもりはないが、沙霧が上野の生活を苦に出ていくという事情は酌んでくれたらしい。浄正にそれを告げてしまえば、これからは客を追い払うだのと要らぬ提案をするはず。自分が上野にいなければ浄正の人付き合いを妨げる事もなく、自分も気楽に過ごせる。そう思って、守り役の指名を機に引っ越したのだ。

「ま、達者のようだから良しとしよう。今どこに住んでるんだ?」
「江戸城の近くです」
「……具体的にどこ」
「樹の家の隣」
「な……なんであんな胡散臭い小僧の隣なんぞに!」

 どうせなら今度こそはひと気のない閑静な所が良く、胡散臭い呪術師という肩書きをぶら下げているおかげで村八分生活を満喫している水無瀬 (いつき)の家の隣に家を建てた。といっても、ただっ広い荒地にぽつんと建っている廃屋のような一軒家が樹の住処だとは知らなかったのだが。
 樹なら人付き合いも皆無と言えるほど少なく、呪術師の家の周りを徘徊する人間もいない。
 これでようやく安穏とした生活が送れると目論んでいた。

 のだが、まさか新たな職場に浄正が出てくるとはさすがに予測できなかった。

「とりあえず、上野ではお世話になりました」
「いや、まだまだ世話してやるから帰っておいで」
「今こちらの由宇姫の守り役を務めているので、失礼します」

 浄正に係わると事が長くなりすぎて厄介だと見切りをつけ、何か言いたそうにしている由宇姫の肩を抱くようにして退散する。浄正の方も、駆け寄ってきた千早丸と何事か話し込んでいた。
 男は男、女は女。同じ場所にはいない方が賢明である。


 部屋に戻るなり、由宇姫がしゅんと肩を落として俯いた。

「由宇は、浄正様にご挨拶を申し上げたかったです……」

 自分の都合で姫を連れ戻してしまい、沙霧はしまったと畳に両手を突く心境に陥る。

「……浄正様は若様の稽古中でしたから、また別の機会に……」
「紹介して下さいます?」
「勿論でございます」
「約束ですわっ。絶対に絶対に、紹介して下さいね!」

 やはり否とは言えず、しばらくはまだ『元・隠密衆』というものが付きまとう定めにあるらしい。
 沙霧は心底から、隠密衆の名を知らない山奥へと逃げ込みたい一心だった。



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