九.


 ───上野、葛西邸。


「りん、行ってくるぞー」
「勝手にいってらっしゃーい」

 下駄に足を通していた浄正は、顔も見せない妻の返事にがくりと足首を捻らせる。
 休職生活に終止符を打ち、今日から再び勤め人になる夫への態度がそれでいいのだろうか。
 亭主関白を貫くわけではないが、妻に見送られて仕事へ行くという有り触れた家庭を築いてこなかった長年、ようやく普通の『旦那様』になれると思っていたのに、この門出。

「……いってらっしゃいのチューとかないの?」
「して欲しかったらしっかり働いてきてー」

 そんな妻が今なにをしているのかといえば、遊びに行く為の着物を選んでいるだけである。
 毎日毎日どこへ何をしに行っているのか知らないが、野放しにしておくのも考えものか。好き勝手にさせてやるのが一番いいと思っていたが、こうも好き放題やられては寂しいものがある。

「あ、浄正。ちょっと待って」

 部屋から駆けてくる妻の足音を聞き、浄正は項垂れていた頭を素早く持ち上げた。何だかんだ言っても見送ってくれるかと笑顔で振り返り、両腕を伸ばす。

「り───」
「新しい巾着と簪が欲しいの。お金ちょーだい」
「…………」
「あとねぇ、どーっしても色が合わない帯があるからそれに合う着物も欲しいの」

 どうせそんな事だろうとは予想していた。
 あまりにも予想圏内にありすぎて溜息も出てこない。
 いくらだ、何両だ、高すぎる、これでも足りないくらいだ、などと押し問答した末、結局は指定額に少々上乗せしてやった自分の甘さに涙が出る。余ったら茶菓子でも買っておけと言い添え、玄関先でぴょんぴょん飛び跳ねながら見送ってくれた妻に背を向けた。

(甘い……甘すぎるぞ浄正)

 馬に鞍を乗せ、心中呟く。
 家庭を顧みてこなかった過去を思えばこれくらいの奉仕では足りなかろうが、それを承知で嫁に来てくれたのだと思い直せば甘さ奉仕も時別つまで、か。
 やれやれと首を振り、馬の腹を蹴って江戸城本丸へ向かった。




 御自ら出迎えてくれた大老閣の穂積に続き、浄正は身を正して殿中を練り歩く。
 穂積とは現役時代によく顔を合わせた間柄であり、徳川の息の掛かった人間の中で唯一好感の持てる相手だった。引退して城に上がる機会がなくなってから久しく、一週間前にばったりと町中で遭遇したのがきっかけで今日に至る。

「先日参られたばかりでの。尾張家当主のご嫡男、千早丸様と申す」

 尾張家とは、尾張徳川家。水戸徳川家、紀伊徳川家と並び、徳川の姓を名乗ることを許された副将軍団、徳川御三家の一である。いずれも将軍家に継ぐ権力を持ち、将軍に嫡子がない場合はこの三藩から養子が出されることが決められている。

 よんどころなき事情により、現在の江戸城には尾張家の坊やと紀伊家のお嬢がいるらしい。
 姫君の()り役(=教育係の事)は半月前に決まったのだが、若君を預かるにはそれなりの待遇をしなければならず、さて誰を守り役に就けるかと悩んだのだ、と穂積は言った。

「城下で隠密衆の元御頭殿を見かけた時は、これぞ天命であるかと思ったものよ」
「また、畏れ多い事を申されますな。暇を持て余して遊山していただけです」
「それも何かの縁であろうて」

 呵呵大笑といった風で、初老の穂積は一室の前に足を止めた。
 ここが坊やの部屋かと一呼吸した浄正は、袴を折って襖の前に膝をつき、穂積とのやりとりに耳を欹てる。幼名を語っている通り、その声は幼かった。齢十二、三といったところだろう。
 襖が開かれると、浄正は深く低頭した。

「千早丸様の剣術指南役を預かります、葛西浄正と申します」
「浄正殿か。そう畏まらず、面を上げよ」

 剣術の先生に小さくなられては困ると笑われ、しかし立場上仕方ないのだと内心の口をヘの字に曲げた浄正は、それではと身を起こしてご尊顔を拝見した。
 まさに、小僧。
 なかなかの器量良しだが、袴に着飾られている風体ではまだまだ小僧だ。


「早速で相済まないが、今から教えて頂けるか?」
「今から、でございますか?」

 食事が終わって間もない時刻、坊ちゃんはこれから女中達とお戯れになる時間ではないのかと首を捻る。浄正の不埒な疑問も解さず、千早丸は「恥ずかしい話だが」と呟いて頬を染めた。

「僕は……十三にしてまだ刀を持ったことがない」

 真に恥ずかしい自慢だ。
 曲がりなりにも御三家嫡子の身分で、今まで何をしてきたのだろう。男子たる者、十三年の浪費は手痛すぎる。まったくの基礎も知らないのでは先が思いやられる話だなと、浄正の顔に苦笑いが浮かんだ。

「正直に申し上げまして、少々出遅れた感は否めませんね」

 無礼を承知で本音を告げると、聞き分けはいいのか素直に頷いた千早丸が身を乗り出す。

「隠密衆を率いていた頃の浄正殿を、一度だけ見たことがある」

 尾張藩へ遠征に行ったのはかれこれ六年前が最後だったか。すると千早丸は当時七歳、物事の分別はついていて当たり前の年頃だ。

「あんな風に、恰好良く刀を操ってみたいと思った」

 苦笑いを浮かべていた浄正はふと真顔に戻り、その賛辞に頷きもせず正面を見る。

「刀を振るいたい目下の理由は、それですかな?」

 刀を振るうという事が何を意味するのか、この年では分からないかもしれない。
 幕府を守る為に刀を持ち、悪者を排除する為に人を斬る、それだけの事では断じてない。

 人を一人殺すというのは、その者の人生に携わっている数多の人間をも殺すという事。
 生きるか死ぬかのこのご時世、人道を唱えるほど馬鹿ではないが、刀を抜かなければならない時は常に畜生道へ堕ちるも同然。恰好良いだの何だのとは言っていられないのだ。
 生きる為に盗みを働く者よりも、欲の為に金を転がす者よりも、それは愚劣極まりない。


「僭越ながら、稽古の前に若様の御意志を拝聴させて頂きとうございます。お答えの如何によっては指南役をお断り申し上げるかと」

 骨無しの阿呆に教えるのはまっぴら御免。世の何たるかはこれから学ぶとしても、元服まであと二年となればそれなりの考えは持っていて然るべきである。
 千早丸は吃驚を顔に描いたような表情で、浄正から目を逸らさなかった。望めば何でも与えられてきたのだろうが、こればかりは生半可な気持ちでは与えてやらぬと浄正も見返す。

「浄正殿のように、誰にも負けぬ強い人間になりたい……それでは駄目か?」

 来る日も来る日も妻に負けている───思わずそんな即答が飛び出るところだった。
 出掛けの一件を反芻して挫けそうになり、浄正は咳払いで喉のつっかえを嚥下する。

「ま、宜しいでしょう。当面の間、千早丸様には木刀を振るって頂きます」
「木刀か……真剣を持てるのはいつと見える?」
「見積もって、先半年」

 そう言ってから、わざと底意地の悪い微笑を作ってみせた。

「しかしながら若様の御努力次第では、如何様にもなりましょうな」

 教えを請うならば、それなりの根性を見せてもらわなければ面白くない。御三家の小僧だろうと農民の小僧だろうと、剣術に身分の如何は問わず。
 久々に腕の鳴る仕事かもしれないと、浄正は満面の笑みでしごきの計画を組み立てた。



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