八. 正午も近づくと、朝から我躯斬龍で屍となっていた虎卍隊の隊士はぽつぽつと意識を戻し、千鳥足で各自の部屋へと帰っていった。閉ざされた大広間の襖から漏れ聞こえる談笑も耳に入らず、よたよたと廊下を過ぎていく負け犬の影が人知れず哀愁を誘う。 唸りや呻きに始まり、果ては啜り泣きから絶叫まで、奇々怪々な声が夜半を過ぎても各部屋から聞こえはしたものの、その日は臙脂の鉢巻が我が物顔で犬小屋を闊歩する事はなく、他の隊士達にとっては平和な終日であった。 腫れた頬に氷を当て、筋肉が分裂したような腹の疼きを堪えて爆睡していた宏幸は、突然カッと目を開いて薄暗い天井を見上げた。 「……気のせいか」 皓司に斬り殺された隊士の生首が顔の前に現れ、自分に恨み言を吐いていたような気がしたのだ。生首が現れたところで怖くもないが、目が覚めてしまったおかげで節々の痛みが再発する。 そっと口を開け、指先で奥歯を弄ってみた。揺れも抜けもしなかったことに安堵し、改めて己の歯の丈夫さを実感する。子供の頃から歯は頑丈だった。それというのも四人の姉が日々謂れなき暴力を働いてくれたので、拳が飛んでくる寸前に奥歯を噛み締める癖がついているのだ。 姉の力とは比べものにならない一撃だったが、折れなかっただけでも皓司に一本勝てたという事だろうかと、宏幸は顔を弛緩させた。途端、切れた頬の裏が沁みて涙目になる。 もうひと眠りしようと瞼を閉じ、暗闇に浮かぶ生首を数えて二十頭─── 再び、目を開ける。 「…………じゃねえな」 ここは墓場か、恐山か。 虎卍隊の隊士の数だけ哀れな呻き声が衛明館に鳴り響いているのは分かるが、恐ろしく間近から聞こえてくるのが一つ。それはどう考えても自分の真上から聞こえるのだが、ここは二階で上階はない。天井裏にも『衛明館の怪』は存在しただろうか。否、そんな噂は聞いたこともない。 布団を跳ね上げ、苦労して立ち上がった。その動作はまさしく芋虫だったが、おぼつかない足を引きずりながら戸口まで辿りつき、襖に手をかける。 そこで、正体不明の地縛霊が判明した。 「お前かよ……」 仕切りの向こう側で、布団も敷かず畳に転がっている相棒を見つける。 「おい、オニシバ。うるさくて寝られねーんだけど」 闇に慣れた目を凝らして覗くと、甲斐は背を丸めて呻いているだけでぴくりとも動かない。そろりと猫のように近づき、隅にあった燭台に火をつけてみる。 「……甲斐?」 意識もないらしく、彼は隊服のまま死にかけていた。むしろ、死んでいた。 何があったのだろうと一瞬考え、宏幸はぽんと手を打つ。 自分が先に皓司と対戦したので知らなかったが、こいつも負けたわけかと結論に至った。 その無様な姿を是非とも見ておきたかった。なまじ今まで俺様気取りだった相棒が、ついに他人の手によって敗れたのだ。ほくそ笑まずにはいられない。墨で落書きでもしてやろうかと憎き面を覗き込むと、眉根を寄せた甲斐が腹を抱きかかえるようにして、さらに身を縮ませる。 さてはご自慢の胃に一発食らったのだろう。 「ったく、妙なとこで軟弱だな」 言うなり布団を引っ張り出して身包みを剥がし、蹴り転がして布団をかけ、一階から桶と手拭いを持ってきてジャージャー絞り、広げて顔に被せ……ようとしたが、この団子虫ほど自分は鬼ではない。折りたたんで額と肩の打ち傷に叩きつけてやった。「甲斐」の名を持つ者が甲斐甲斐しくもないのに、自分はなんと甲斐甲斐しいのかと溜息が出る。 「貸し作っとくからな。後で知らねえとか言うなよ」 無様な姿を見て気分を良くしたのか、宏幸は聞いてもいない相手に宣告した。返事はないが苦悶の呻きもひとまず止んだ地縛霊を眺め、成仏したのを確認して腰を上げる。 自分が覚えているのは、そこまでだった。 昏々と眠り続ければ一日はあっという間で、翌朝。 障子を通した柔らかな朝日が、甲斐の顔を照らしていた。どこかの部屋では数羽のニワトリが「お母さーん!」などと寝ぼけた絶叫を上げている。ごろりと寝返りを打ち、瞼を開けた。その拍子に、白いものがぱさりと自分の額から落下する。 ぼんやりと掴んだそれに焦点を合わせた甲斐は、数回瞬きを繰り返して飛び起きた。 「……嘘だろ」 節々の痛みよりも痛撃な後悔に襲われ、頭を抱えて前のめりに突っ伏す。 布団の脇で、壁にもたれ掛かるようにして爆睡している宏幸がいた。枕元には水の張った桶がひとつ。周りは水浸しで、何故か鉢巻が中に浸けられたまま───最悪だ。 自分で敷いた覚えもない布団の上で、自分で脱いだ記憶もない上着を握り締め、自分で持ってこられたはずもない桶と手拭いを睨みつける。そして、自分がどんな失態を働いたのか言われなくとも分かる壁際の証拠品を、茫然と見つめた。 ぷくりと腫れ上がった片頬に涎を垂らし、そのうち鼻提灯でも膨らませるのではないかと思うような、不気味ににやけたその寝顔。よほど面白い夢でも見ているのか、宏幸の口からえへっという寝言が呟かれる。 「ヒロユキ」 「あーい……げんきでーす……」 「…………」 阿呆だ。眠っている最中まで見事な阿呆っぷりだ。 甲斐は真面目に笑えない心境で、もそりと布団から這い出る。立ち上がろうとして情けなくも崩折れた膝をつき、あまりにも無様で白髪になりそうだった。その間、相方は目の前でえへらえへらと笑いながら惰眠を貪っている。馬鹿ほど平和で羨ましいとさえ思った。 宏幸の寝巻きの襟首を掴み、畳を引きずりながら仕切りの向こう側まで運んでいく。半分ほど跳ね上げられた掛け布団を足で退け、煎餅布団の上へ投げ倒すようにして転がした。 「借りの半分は、今返したからな……」 弾む息を呑み込んで告げ、枕元に転がっていた氷嚢を腫れた頬の下に押し込む。 急に持ち上がった宏幸の腕が、自分の首に直撃した。 「愛してるんだー……ぎゃははは」 「愛してないヨ」 「まったまたぁ〜……」 夢か現か───甲斐は俄かに冷静になった頭を揺らして自室へ引き返し、水に浸してきた手拭いを絞らずに広げて宏幸の顔面へ乗せた。 このまま死ねばいい。 「…………ぶおぉおおおっ!!」 自室の布団へ倒れ込んだ頃になって、隣から絶叫が迸る。 「てめえ、起きたのかコラ!」 「寝てる」 「俺と同じことすんじゃねーよ! つか、俺は未遂だったのに!」 「おかげ様でよく寝られたヨ」 「あーそうだろそうだろ、この団子虫野郎っ」 箪笥越しに罵り合い、甲斐は桶の水をひと掬いして顔を拭った。 「ねぇ、ヒロユキ」 「なんだよ、まだ文句あんのか?」 さっきから文句を言っているのはそっちだろうと呆れ返る。肩の辺りに潰れた手拭いを見つけると、もう無様だろうが情けなかろうがどうでもよくなって、それを桶に放り込んだ。 「ありがとう」 閉じた瞼に浮かぶのは、朝日の柔らかい光。 長い沈黙を費やしてから返ってきた言葉は、いつも通りだなと苦笑する一言だった。 「おめーの為じゃねえ。寝言がやかましくて迷惑してたんだよ、だぁほ」 |
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