五. ───軟弱で軽率な殿方は興味ございませんの それまでの控えめな声音とは打って変わり、横っ面をぴしゃりと叩かれたような一言に、甲斐は長いこと放心していた。前から後ろから通行人に肩をぶつけられては罵倒され、赤襟の服が隠密衆の一隊のものだと知る人間にはそそくさと避けて通られ。雑踏の中、廃人のような風体で立ち尽くした甲斐の記憶を巡るは、身分の高そうな美人が微笑みながら放ってくれた強烈な言葉。 『軽率』はともかくも、『軟弱』。 好きで軟弱な体型を維持しているわけではないが、そう見られているのかと思うと自尊心が音を立てて崩れ落ちた。通りすがりの子供が甲斐を指差し、「ハイジンだー」と笑う。慌てた母親が子供の口を押さえ、足早に去っていった。ハイジンでもハイジでも、今の甲斐に大した違いはない。 「……軟弱」 独り言を呟き、よたりと歩き出した。 数軒先の賭場から出てきた隠密衆の平隊士が甲斐を見止めて声をかけようとし、咄嗟にその手と舌を引っ込めたのは、彼のみぞ知る一コマである。 「…………」 「…………」 「…………」 侍女が運び入れた朝食を前に、幾人かの隊士達は味噌汁を掻き回しながら宙を見ていた。上座の方では約一名を除いて、普段通りの談笑が聞こえてくる。それと同時に、天井上から凄まじい改築の音が響いていた。 「やあ、皓司が帰ってきてくれたら百人力だね」 何の変哲もない白米を美味しそうに食べる隆の隣で、圭祐はさらに隣の保智を見上げる。 「よかったね、保くん」 「なんで俺が……?」 お前はこの喜びを分かち合う気はないのか、とは言わず、圭祐はくすりと笑った。 「戦力が均等に三分配されるんだから、この半年間の重労働は終わりだよ」 そういう事かと、保智は神妙な顔で頷く。逐一説明してもらわなければ何も分からない鈍さに自分でも辟易する。だが、本当にこれで良いのだろうかと当て所もない不安が胸を過ぎった。自分の上司が代わったわけではなく、保智や圭祐には直接的な変化は何もない。それでも、何がしかの不安というかスッキリしないものが、腹の底に沈底している。 鯖を解体するばかりで箸が口へ行かない浄次の斜め向かいでは、身丈の悩みなどけろりと忘れて上機嫌の宏幸が二杯目の茶碗を掻き込んだ。 「へか、ほはみはんへぼんあはいひょーばっふぁんあ゙?」 「何言ってんのか分からねーよ、高井さん」 「ぶふへーあ」 高速で顎を動かし米を飲み込んだ宏幸は、喉に詰まって悶絶したところを隣の巴に助けられて涙目になる。差し出された茶を一気に飲み干してから、それが巴の湯のみだと気づいた。もしかしなくてもこれが間接チューかと不埒な発想をしつつ湯飲みを返し、毎度誰に尋ねているのか所定のない疑問を一座に飛ばす。 「てか、斗上さんてどんな隊長だったんだ?」 単純明快な質問に、下座の隊士が再びブリザードを受けて凍結した。 「何で固まるんだよ、そこ。お前ら斗上さんが現役の頃からいたんだろ?」 「……いたけど、それは……それだけは聞かない約束で……」 バン、と卓に箸を叩きつけた宏幸の顔を見て、凍結隊士は互いに身を寄せ合って首を振り続ける。いやよいやよも好きのうちではないが、言い渋られれば渋られるほど興味をそそるのは当然で、宏幸は刀を抜く素振りを見せた。 「はい、俺の質問に答える。五、四、三、二」 「俺らに言論の自由はないのか!」 「あるある。だから遠慮なく喋れ。ほら早く」 「待て、違う! 黙秘権だ、黙秘権!」 「そんなのは死んだ時しか通用しねーし」 揃いも揃ってなぜ言い渋るのだろう。宏幸は下座の隊士達をちらりと勘定してみる。およそ平静でいるのは龍華隊と氷鷺隊の隊士全員、虎卍隊の隊士約三分の二。虎卍隊の三分の二のうち、四年前まで紅蓮隊を率いていた斗上皓司なる人物の詳細を知らない者、宏幸含めて全員。 今この場にはいないが、相方の甲斐も確か四年前は紅蓮隊だったはずだ。けれども、相方に尋ねたところでまともな答えが返ってくるとは思い難い。 「青山さん。斗上さんてどんな隊長だったんスか?」 こちらも確か隠密衆に長く在籍している人。まずは手近から調査しようと試みる。 「どんな隊長と言われても、俺はあの人の下じゃなかったから」 「じゃ、傍から見てこんな感じだったとかでもいいっスよ」 「そつのない人ではあるかな。厳しいけど優しい面もあって、一目置かれてたよ」 これを相方の言葉に代えると「何でも嫌味なほど完璧にこなす人でネ。鬼のくせにたまに飴を撒いたりして、周囲から浮いてたヨ」とかになるのだろうと宏幸は思った。 「そうそう。皓司はあれで結構、世話上手なんだよねえ」 自分の子供を褒める親のような顔で、隆は嬉しそうに漬物を噛んでいる。五杯目のお替りを頼んだ冴希が、隣の深慈郎の煮物に箸を刺してひょいと口に入れた。 「御皓の上様て世話焼きなんか。人は見かけによらへんのな」 「見かけはあんなだから誤解が多いけどね、本当に頼りになるんだよ」 「殿下もなんや失礼なこと平気で言うわな。見かけはあんなやけど、って」 どちらが先に暴言を吐いたのかはさておき、深慈郎は最後に食べようと取っておいた人参の甘煮を冴希に奪われ、ひっそりと涙する。 宏幸の疑問は大筋解消されぬまま、凍結隊士の胃袋もほとんど満たされぬままに、朝餉の時間はゆるりと過ぎていった。 鬼が来たりて、再びの座。 弥勒が使用していた部屋を畳一枚から窓格子一枚に至るまで、わずか半刻で入れ替え一掃してきた皓司は、汗ひとつ浮かべず涼しい顔で浄次の前に腰を下ろした。浄次の脇には三人衆の隆と巴が座り、卓を片された下座では問題児揃いの虎卍隊がひとまず揃っている。のみならず、班長陣と他の隊士達も結局この場に残っていた。 「虎卍隊隊長役が欠番との事、ご使命頂ければこの身尽くして全う致します」 何故そう来るのか───浄次は手の中の湯飲みを震わせ、皓司に面を上げるよう伝えるのが精一杯。父の命令で戻ってきたと告げられた時から、是が非でもその穴を埋めてもらおうとは決めていた。しかし、浄次が湯飲みを震わせたのは他でもない、正面から自分を見る鬼の双眸だ。まるで復讐を誓って舞い戻ってきたかのような眼に見据えられ、出るものも出てこない。 「……も、もちろん、そのつもりだが……」 「そのつもり、とは如何な事でございましょう」 馬鹿にされている───浄次は手の中の湯のみを握り締め、皓司と対面するのが精一杯。怯まなければならない理由などどこにもないのに、これでは御頭も形無しだ。重役を任命する時は面倒でも形式に倣って伝令しなければならず、浄次は無駄な咳払いで場を取り繕い、カタカタと音を立てて湯飲みを置いた。 「で、では、斗上を虎卍隊隊長役の後任に命ずる。異存ある者は申し出よ」 あっても申し出られない状況なのだと凍結組は涙を凍らせたが、隆や圭祐などは破顔して何故か手を握り合う始末。嬉々恐々でざわめき出した広間を鎮め、浄次は何度目かの咳払いと共に鬼と顔を合わせた。 「隊名などについては、希望があれば変更するが……」 「虎卍隊の名を引き継ぐ所存にございます」 「そ、そうか。では……今後とも、よろしく頼む」 相仕りまして候、などという馬鹿丁寧な返事が飛んでくるかと思ったが、鬼は無言で深々と一礼し、浄次が立ち上がると同時に身を起こす。そして、下座へ反転した。 「という事ですので、虎卍隊は今から我躯斬龍へ行って頂きましょうか」 何が「という事」なのか、虎卍隊の面々は訝しそうに顔を見合わせる。宏幸が立ち上がり、自班の隊士に蹴りを入れて回った。 「さっさと行け、おら。我躯斬龍に集合っつったら集合」 「って、飯食ったばかりなのに何するんだ……?」 「あ? 知らねーよ。斗上さん、何するんですか?」 恐れる事を知らない命知らずの阿呆と呼ばれて四年余り、頭の悪さが時に愛嬌となる持ち前の武器でもって、宏幸はあっけらかんと尋ねる。凍結組が必死に後退る中、皓司は立ち上がって宏幸の得物を指差した。 「あなた方のお手並みを拝見させて頂くのですよ」 自分の隊を知らずに隊長は務まりませんから、と微笑する皓司の額に角が見えなかったのは、幸か不幸か彼を知らない三分の二の隊士と宏幸だけだった。 |
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