四. 隆の息子をやくざの屋敷まで送り届けた甲斐は、一丁張っていけと言う兵藤の誘いを断って本通りに戻った。相方でもあるまいし、朝から博打と洒落込むほど下町の気風には染まらない。 衛明館ではそろそろ朝餉の時間、帰って一眠りしたら、今日も退屈な午後がやってくる。 目的があって早朝から城下町へ出てきた女は、並んで歩いていたはずの連れの男がふらりとどこかへ消えたのも気に留めず、器用に群衆の間をすり抜けた。連れはそのうちまたふらりと戻ってきて、最初からそこにいたような顔でつまらない話を始めるのだろう。どこにいても、どれだけ離れた場所にいても、何となく相手を見つけてしまう。自分達はそういう生き物なのだ。 両脇の軒並びに暖簾が出始めた。 訪問先への手土産は用意してあるので買い物はない。まっすぐに目的地へと進んだ。 しかし数歩も行かぬうちに、今日で何度目だろうか、すれ違った男から声をかけられる。 「この界隈を一人で歩くのは危険ですよ、お嬢さん」 まるで下町の人間ではないと判っているようなその物言いに、女は足を止めて振り返った。 「左様でございますか。連れがおりますので、懸念して頂くには及びませんわ」 「その彼氏は、貴女のような女性を置いてどこへ行っちゃったんですか?」 さっきから影も形も見当たりませんが、と付け足される。 なるほど、さっきから人の様子を伺っていたわけだ。無礼者と罵るのは、この男には微塵の効果もないだろう。指一本でも触れてくれば話は別だが、今のところは声をかけてきた以外に何の無礼も働かれていない。 さて、どうしてくれようか───相手の顔をちらりと見上げた。 「どこかへお出掛けになるなら、そこまで護衛にお供しますよ」 鼻白むほどの見え透いた微笑が降ってくる。 連れが戻ってこないかと周囲を窺ってみたが、まだその気配はないようだった。地元を歩いてもふらふらする男なのだ。滅多に訪れない場所に来れば、ふらふらどころか長旅になるのは必須。 女は軽く腰を折り曲げ、返事を待っている男に詫びた。 「折角ですけれど、結構でございます。御免下さいまし」 断られるとは思っていなかったのか、男は些かばかり驚いた様子で遅れを取る。しかしすぐに横へ並び、歩きながら「どちらまで?」などとお節介も甚だしい質問を向けてきた。はっきりと断っているのに尚も食い下がってくるとは、いい度胸ではないか。 歩きながら、結い上げている髪に手を伸ばす。 珠のついた簪を一本するりと抜き取り、抑えていた袖ごと腕を払った。 布地の繊維が絶たれる微かな音と、鋼の擦れる金属的な雑音。 一瞬の出来事に唖然として足を止めた男の前で、女は優雅な所作で簪を髪に挿し戻す。 「軟弱で軽率な殿方には興味ございませんの。失礼遊ばせ」 「…………」 一線に切れた腹元の衣服に手を当て、男が呆然と顔を上げた。女は肩越しに楚々とした笑みを浮かべると、会釈して人の群れに紛れていく。誰も気づいていない。女が着物の袖についた埃を払ったように見えただけだ。 往き来を繰り返す雑踏の中、黙したまま立ち尽くす男の時間だけが止まっていた。 「玲、あんず飴食べる?」 放浪の旅から戻ってきた連れの男が隣に並び、橙色の練り飴を差し出してくる。 「いりませんわ」 「だよね」 飄々と風を切って歩く連れは、割り箸を口に突っ込んで駄菓子を食べ始めた。腕に抱えた和紙の筒袋に「千鳥屋」と店の名前が入っている。家ではあまり駄菓子を食べないので、ここぞとばかりに買い込んできたようだった。 「あれ。凶器の簪、使ったな?」 目敏く発見した連れが簪の珠を弄りながら笑う。 「どこの馬の骨?」 「どこぞの犬の骨でございましょう」 「犬かよ。馬にも劣るってわけだ」 「所詮はつまらぬ家畜ですわ」 同時刻、衛明館の大広間ではつまらぬ家畜どもが───もとい隊士達が鳥の子のようにピーチクパーチク喋りつつ食事を待っているところ、やってきたのは腹に餌を溜め込んできた親鳥ならぬ、腹に一物を抱え込んでいる鬼男であった。 登場するなり仰々しいまでの平身低頭に、浄次は蒼白の色を成した顔を隠そうともせず、湯飲みを持ち上げたまま上座で凍りついた。数々の疑問を口にしようにも、上唇と下唇が離れて凍結した状態では儘ならない。皆同じ疑問を抱いているのだから、誰かあいつにこの事態を説明させろと言いたかったが、それすらも不可能。 場の空気が読めているのかいないのか、当の皓司は面を上げると雅な動作で立ち上がった。 「朝食は済ませてきましたので、空き部屋を入れ替えたら後ほど参ります」 空き部屋とは何の事だと思い、すぐに弥勒の部屋だと理解する。殉職した隊士は多くても、隊長役の者がすし詰めの平隊士の部屋に転がることはないのだ。隊長には必ず、一人一部屋。 浄次はそこまで思考を回転させてから、凍りついた口の端をひくりと痙攣させた。 (……隊長役……?) 着任致しますと宣言されたが、何の役目に就くとは聞いていない。そもそもそれは御頭である浄次が決定することであり、入隊試験で合格通知を受け取った者も自分からどこそこに就くと決められるわけではないのだ。前線か諜報かの希望は通るとしても、新人はすべからく、隊長になりたいとか御頭の愛人になりたいとかいう希望は通らない。 ふと、脳裏に父の顔が浮かんだ。 どういう経緯で弥勒の除隊を知ったのかは与り知らぬが、虎卍隊の隊長役が欠番→隠密衆は一進一退絶滅の危機→これを機に新たな主砲を設けて大革命。 そして隠密系譜によるところの虎卍隊の先祖、紅蓮隊の元隊長が現世に黄泉がえり。 問題あって辞めた人間ではないのだから欠番を補うのに不足はないだろう、むしろおつりが出るほどの適合者だろう───元御頭である父のふざけた顔が、鬼の背後に見えるようだった。 静まり返った広間へ一礼して襖を閉めようとした皓司に、誰かがぱたぱたと駆け寄る。 「皓司!」 この場で動ける者がいたのか。元紅蓮隊に所属していた古株の数人が、辛うじてそこだけ動く目を周囲に巡らせた。瞬間、眼球が俄かに飛び出る。 「おかえり、皓司」 縁側から駆けてきた隆が、この上ないほど幸せそうな顔で鬼に抱きついた。このクソ寒いのに入り口を開け放してイチャつくなとは言えず、鬼の反応や如何にと様子を伺うことしかできない。 「ただいま。と言いたいところですが、私は不本意ですよ」 「うん、知ってる。でも帰ってきてくれて嬉しいよ」 皓司が現役の頃からの付き合いである隆は、その後二人にしか聞こえない会話を二三交わして身を離し、名残惜しそうに肩へ手を置いた。 「部屋の入れ替えをするんだろう、手伝おうか?」 「結構です。掃除には慣れておりますのでね」 「あはは、先代は片付け下手だったからねえ」 「現在進行形ですよ。少しは要領が分かってきたようですが」 未だ掃除と呼べるほどの有様ではないと毒づいて、皓司は一つ年長の隆に微笑する。 「今度は私が後輩の立場ですね。よろしくお願い致します」 隆が入隊した時、すでに皓司はここに居た。 先輩面をせず、いつ如何なる時も馬鹿丁寧な口調で話すので、十代の隆はどうして新人にまで敬語を使うのかと尋ねたことがある。答えは至極単純で、育ちの問題だと言われた。身分の低い家だとか厳格な武家育ちだとかいう意味ではなく、人の出入りが多い家だったのでそのように育てられたのだ、と。 逆に、貴方はどうして年下の自分に敬語を話すのかと問われ、隆は面食らった。新参者なのだから当たり前だと思っていたのに、皓司はそれを一笑したのだ。似合いませんよ、と。 そんな時間を昨日の事ように思い出した隆は、臆面もなく皓司の頬をひと撫でして笑う。 「皓司に後輩なんて言葉は似合わないよ」 どうでもいいがさっさと閉めてくれ、などと割り込める勇者は、この場にはいなかった。 |
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