三.


 元は下女や足軽衆が住み込んでいた衛明館は、ご立派にも二階建て建築である。
 その二階に八畳間の自室を構えている葛西 浄次(きよつぐ)は、胡坐を掻いたまま背中に布団を被り、盛大に鼻をかんでいた。一人で部屋を占領しているのだから他人の暖など取れるはずもなく、隙間風に震える毎年の冬。

「ふぬぅ……」

 筋の通った鼻の先を赤く染め、屑籠へ半紙を放り込む。

「ん……?」

 今しがた鼻をかんだ紙に、文字のようなものが見えた気がした。寸の間ぼんやりと屑籠を見つめ、引き寄せて取り出す。丸められた半紙の所々に、墨汁の滲んだ跡が見え隠れしていた。

「なんだこれは」

 独り言を呟きながらそれを広げようとし、はたと止まる。
 汚物でも見るような目で自分のかんだ鼻紙を眺め、つまらぬ葛藤に唸り出した。
 盛大に放った己の鼻汁を見ろというのか───
 誰も鼻汁を見ろとは言っていないが、枕元に置いてある半紙の束と間違えて取ったのなら、これは枕元に置かれていた文という事だ。明らかに何事か記されていると分かる紙を見ずに捨てるのは、やはり気になる。筆不精の隊士達が律儀に文をしたためて人の寝枕に置くのは、大きく分けて三種類。半年前までは二種類だったが、沙霧が三つ目のパターンを作って去ったのだ。

 つまり、辞表。
 あるいは、恋文。
 最も多いのが貸し金の返済脅迫と併せた呪いの文である。

 隊士に金を借りた覚えはないので一つは除外できるとしても、残る二つは聞き捨てならない。
 ただでさえ隊士の数が必要な時期、平ならともかく三人衆もしくは班長の誰かのものなら、今度こそ終わりだ。または恋文だとすれば、早急に返事を告げて断らねばならない。男しかおらず、いても男同然のような小娘が一匹の隠密衆。迂闊に無視した日には、後悔の二文字しか先には存在しないのである。
 そう思うと自分の鼻汁が出てこようが構ってはいられなかった。がさごそと半紙を広げ、粘つく水の下に滲んだ文字を声に出して読む。

「退屈なので実家に帰るついでに逢坂の諜報に回る、ばーい弥勒(みろく)……」

 浄次は半紙を丸めて再び屑籠へ放り込んだ。

「何だ、弥勒か」

 わざわざ読む手間もなかったと起き上がり、布団を畳んで着替え始める。虎卍隊のお飾り隊長であった普世(ふぜ) 弥勒が辞めたところで、戦力が今以下に落ちる確率はゼロ割。人手が必要なのではないのかと突っ込まれても、それとこれとは話が別だ。

 戦力にならない者は、いるだけ無駄。

 何を隠そう自分こそがお飾り大将である浄次は、己の事を棚に上げて部屋を後にした。




「だぁから、お圭の胴が短すぎるんであり! 俺の胴は標準だっつの!」
「往生際が悪いな、高井さん。ほれ、後ろの久遠(くおん)と比べても長ぇじゃん」

 子分には事欠かない宏幸が数人と論議し合っているところへ、久遠 祇城(まさき)が音もなく襖を開けて入ってきた。入室するなり名指しされた祇城は、宏幸とは違ったアーモンド型の猫目を瞬かせて立ち止まる。

「何が長いんですか?」
「高井さんの胴は、お前より長いよなってぇ話よ」

 牙を剥き出した宏幸を脇に抱え込み、子分その1が笑った。祇城は暴れる宏幸の腰をじっと見つめ、小首を傾げる。柔らかそうな猫柳色の髪が、廊下から吹き付ける風に煽られて踊った。

「胴が長いと、何か良い事があるんですか?」
「あるわけねーだろ! ってか、離せ」
「やー高井さんて最近可愛いよな。麻績柴さんが虐めるのも分かるよ俺」
「てめぇら、俺を不幸にすんのも大概にしとけ」

 子分に弄ばれる宏幸を尻目に、祇城はそのまま縁側まで歩いてぺたりと腰を下ろした。東西南北、庭の草むしりと大根栽培が日課となっている彼も、冬は非番のようである。霜の降りた庭を眺めて白い息を吐いた。

「胴が長いという事は、上半身より下半身が短いという事で……」
「あぁ!? なんか言ったかチャイニーズ!」
「お腹が空きました」

 故あって日本に住み着いている中国籍の祇城は、日本語の使い方からすっとぼけの手法までようやく分かってきたのか、そんな事を呟いて空を見上げた。故郷にいた頃の記憶がまったくない彼だが、少なくとも宏幸より遥かに腕が立つ。異国人だろうと異星人だろうと戦力さえ賄えれば無問題の隠密衆で、祇城は日々いるのかいないのか分からない存在感を放っていた。

「今日は、恐ろしい事が起こりそうです」

 などとまた呟いた祇城の横で、縁側組の隆が首を巡らせる。

「へえ、どんなことが起こりそうなんだい?」
「分かりません。でも、チョッパーが……何と言うんですか」
「直感?」
「はい。直感が働きました。血が流れるような事だと思います」

 そりゃあ人の体には血が流れているからねえ、と、隆もまた何が言いたいのか分からない返事をして、まったりと空を見上げた。

「俺は、良い事が起こると思うな」

 祇城の視線が空から庭へ、庭から隆へと移る。

「そうですか? 寒河江様の直感は当たるのですか?」
「当たらずとも遠からず、だけどね。フィフティ・フィフティっていう意味だよ」

 難語は適当なえげれす語に訳すべし、が祇城との会話の法則である。頷いた祇城は、それでも不吉な予感が拭えないのか、考え込むような顔で俯いた。


 朝食待ちの早起き隊士達がぞろぞろと集まったところで、お飾り大将が登場する。浄次はくしゃみと共に襖を開け、弾みで軌道が外れたそれを元に戻しながら告げた。

「今朝方、普世から辞表兼転職届を預かってな。逢坂の諜報に回ると書いてあった」

 返事は、無し。

「よって隊長二名と虎卍隊は朝食後、この場に残るように。いいな」

 弥勒の配下であった隊の面々から「へーい」だの「ほーい」だのいう返事は聞こえたが、弥勒の辞表にはさりとて興味もない様子だった。考えていることは皆同じ、使えない者はいらないのだ。

「弥勒が辞めたっつーことは、よ。もしも明日遠征が入ったらどうなるんだ?」
「だから朝食後に会議だと言っただろう。何を聞いているんだ、高井」

 残れとは聞いたが会議とは聞いてない、などと屁理屈を並べた宏幸が突然、弾かれたように背後を振り返って襖を凝視する。ぴたりと閉まった襖には何の異変が見られるわけでもなく、傍らの子分達は訝しそうに宏幸の顔の前で手を振った。

「どうかしたのか、高井さん?」
「なんか……隙間風が急に……」

 冷気を増したような、と尻すぼみに口篭った時───


 スッ、と襖が開かれた。

 ぎょっとして咄嗟に後退った宏幸と子分達は、境界のあちら側に折り目も正しく鎮座している人の姿を見て、声もなく口を全開にする。何事かと緩慢な動きでそこに注目した隊士達の数人が、次の瞬間には宏幸と同じ状態で顎を外した。
 鎮座していた主は軽く顔を上げ、恭しくも三つ指揃えて膝元に置き、深々と頭を垂れる。

「先代御頭の(めい)を賜りまして、本日より着任致します、斗上 皓司でございます」



 それは、一部の者を一瞬にして脳髄まで凍らせた、静かなる氷河期到来のお告げであった。



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