二. 城下町の賑わいは日々衰えることなく、幕府の犬も歩けば『坊』に当たる様相。 「っと、ゴメンネ」 宏幸の相方である虎卍隊の二班班長、麻績柴 甲斐は、本人が自己申告するところの長い脚にぶつかった子供の手を取り、転倒を防いだ。脇道から飛び出てきた子供が悪いとはいえ、大人は笑顔で忍耐の為所である。 「余所見してたら馬に撥ねられちゃうヨ」 「あれっ! あんみつしゅーのお兄ちゃん!」 掴んだ手の先から素っ頓狂な声が放たれ、次いで抱き枕のように脚へ絡みつかれた。 「……命?」 その子供は、いつぞやに衛明館の隠し通路から侵入してきた無法者、ならぬ、寒河江 隆の愛息だった。前回は天井からぼとりと落下し、今回は脇からびたんと衝突してきた命は、彼が判断するところの綺麗なお顔のお兄ちゃんを見上げ、罪のない笑顔を見せる。 「こんにちはっ」 「はあ、こんにちは……」 さすが隆の息子、無法者と言えども一応の礼儀は弁えていた。そのくせ、挨拶しながら両腕を上に伸ばすあたりが図々しいというか、子供ならではの才能とも呼べる我が儘がまかり通ると思っているらしい。仕方なく抱き上げると、赤い鉢巻がお気に入りのようで勝手に甲斐の額から抜き取ってしまう。 「どこいくの? 命はねえ、ひょっとこさんのとこに行くんだよ」 「兵藤さんネ。お母さん、また博打してるのカナ?」 「ううん、今日はおうちで叩き売ってるよ」 賭博と商売が趣味のヤンママを齢四つの息子が理解しているのだから、目頭が熱い。 『瑠璃屋』という名の呉服屋を営んでいる実家では、隆の妻の光琉が女将同然の形で切り盛りしていた。上は徳川から下は貧民まで、ありとあらゆる客のニーズに合わせた丁寧な対応をする事で有名だ。隠密衆の陣羽織や隊服も代々ここで仕立てられている。 「どうして兵藤さんの所に命が行くの?」 「うんとね、もんばおりのみばらいちょーしゅーだって」 「やくざの紋羽織の未払い徴収……に、きみが行くの……?」 「ひょっとこさんがばくち教えてくれるんだよ。お兄ちゃんも一緒する?」 親の顔は見飽きたが、親の教育法が未だに謎だ。よく捻くれずに育つものだと感心する。 気晴らしに出歩いていただけでどこへ用があるわけでもなく、甲斐はひとつ頷いた。 「じゃ、一緒に行こうかネ」 「ひょっとこさんとこまで抱っこしてってくれる?」 「はいはい」 今年は戌年。幕府の犬も、奉仕の年である。 舞台は戻って衛明館。 毎朝の習慣で自室の仏壇に手を合わせた外山 深慈郎は、今日も一日ほにゃららら、と呟いて部屋を出た。隠密衆では最も使えない隊士だが、パシリには最も使える隊士である。素直で忠実、ドジで間抜け。これが龍華隊の班長だというのだから、隊長の苦労も推して知るべし、だ。 「あ、おはようございます。椋鳥さん」 「あーおはようさん」 角を曲がった所で相方に出会った深慈郎は、直後に赤面して踵を回した。 「やっぱ朝風呂はええなぁ。ビシッとするちゅーか」 「け、け、結構ですけど……その、格好はどう、かと……」 どもる深慈郎の背中と挨拶した椋鳥 冴希は、「なんや?」と自分の姿を見下ろす。どこといって公共違反の格好はしていない。そもそもがこの衛明館には○○違反などという立派な法律は存在しないわけで、誰が何をしようと迷惑以外の何ものでもないのだ。違反こそが法律である。 「うちの格好、何かおかしいんか?」 「おか、おかしいとか、じゃなくてですね……」 「はっきり言うたらどうなんよ、タヌキ。鬱陶しいわ」 言うなり深慈郎の肩を掴み、背負い刀を得物にしているだけあって怪力を誇る冴希は、力に任せてその身をぐるりと反転させた。冴希との身長差などあって無いようなもの、深慈郎は極力下を向かないように顎を上げ、視線を宙に泳がせたまま口を動かす。 「お、女の子なんですから、さらし一枚で歩かないで下さい!」 断じて冴希に恋をしているわけではないが、むさ苦しい男衆の住む屋敷で、花も実も成長不足とはいえ紅一点。男と同じ気分で歩いていたら危険なのだ。 ───と、深慈郎だけが彼女の身を案じていた。 「なんや、そんなことかいな」 相方の気遣いを鼻で笑い飛ばした冴希は、意味もなく仁王立ちで腰を突き出した。胸を反らせても出るところがない故である。 「そしたら能醍のオヤジはもっと大変やな。お圭ちゃんがあーやし」 「圭くんは男ですよ……」 「うちに色目使う男はおらんでも、お圭ちゃんに色目使う男はぎょうさんおるやん」 「…………」 それは確かにそうだと同意しそうになり、深慈郎は曖昧に言葉を濁して冴希から離れた。 班長同士は通常二人で一部屋を共有するものだが、男女が一部屋というのは外聞がよくない為、深慈郎と冴希に限ってそれぞれの個室を与えられている。しかし今日びこのように節操のない格好───さらし一丁にヘソ出し短パン───で廊下をほっつかれては、部屋を分けても大した意味はもたらされていないのではないか。 こっそり溜息を零した深慈郎の横で、冴希は真冬だというのに廊下の窓を全開にする。 「今日もええ天気やな。お、隊長やん。おはようさーん」 寒気に身を縮めている深慈郎を押し退け、冴希がその後ろに片手を上げた。 「おはよう。冴希は元気だな、そんな格好で」 振り返れば寝ぼけ眼の新隊長、青山 巴がぺたぺたと歩いてくる。元は平隊士だったが実力は沙霧の片腕だったと言っても過言ではない男で、望まずとも隊士の一存で龍華隊を引き継ぎ、早半年。物静かで、ややもすれば薄倖そうに見える顔の巴は、良くも悪くもマイペースな言動で周囲をツッコミに回す名人である。 「おはようございます、青山隊長!」 「おはよう深慈郎。その隊長って、やめてくれないかな。どうも慣れない」 「は……?」 隊長を隊長と呼んで何が問題なのか、むしろそう呼ぶのが上下関係のうんちくかんちくであり、統一性が保たれると信じてやまない深慈郎は、思わず彼を見上げて閉口した。さらし一丁で窓枠に寄りかかっていた冴希が、ぽんと手を打つ。 「ほな『巴御前』やな。みんなそう呼んどるねんから」 「ああ、その方がありがたい」 かの名将の妻の名で呼ばれて「それでいい」と頷く巴は前隊長から天然要素まで引き継いだのか、ぼやっとした表情で広間に去っていった。深慈郎と冴希はその背を見送り、示し合わせたように目をかち合わせる。 「別嬪さんやけどなあ、表情がないちゅうか、何考えてんのか分からんよな」 「でも良い人ですよね。僕は青山さんが隊長になってくれて良かったです」 「ま、日常のぽけーっとした感じは沙霧姉と似てなくもないわな」 それよりメシや、と身体を起こした冴希に引きずられるようにして、深慈郎は澄み渡った冬の空を見上げた。和んでいた空気が一瞬だけ張り詰めたように感じたのは、気のせいだろうか。 いい職場で働けることを日々感謝しつつ、騒動のない日はないこの衛明館で、今日はどんな事が起こるのだろうと案じてみる。 開け放たれた窓の外で、霜を被った椿の枝が人知れずポキリと折れた。 |
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