一.


 時は流れつつ、舞台は永遠の1706年。
 場所は天下の江戸城敷地内。

 徳川幕府の裏で暗躍するお抱えの組織、『隠密衆』の拠点はその片隅にあった。
 正式名称を衛明館といい、通称を犬小屋という、どちらでも構わないがボロ屋敷である。



「ん……っ」

 悩ましげな声を上げ、埃臭い納戸で格闘する者が一人。

「……もう、ちょ……っ」

 痺れる爪先に力を入れ、腕を伸ばす。
 その腕に重なるように伸ばされた別の手が、求めていたものを掴んだ。

「これ取るの?」
「あっ……」

 いつまで似合わない声を上げているのだ、とは突っ込まれず、高井 宏幸は爪先から力を抜いて踵を落とした。振り返れば、同じ目線で微笑む仲間の顔がある。宏幸が取ろうと苦戦していた箱を易々と取った彼は、同じように踵を地につけてそれを差し出してきた。

「はい、どうぞ」

 女と見紛うばかりの小顔を傾げ、下谷 圭祐は棚を見上げる。

「高いところにある物、届かないよね。踏み台を作った方がいいかな」
「…………」

 箱を受け取った宏幸が呆然とする前で、圭祐は脇に抱えていた帳簿に何やら書きしたため、パタンと閉じて顔を上げた。

「宏くん? どうかした?」
「どうかした、っつーか……お前……」

 並ぶ二人の目線は、水平。
 圭祐の足元から頭の天辺までを何度も往復して確かめた宏幸は、手にした箱を震わせながら食い入るように詰め寄り、圭祐を一歩二歩と退かせる。何が彼を絶句させたのか分からない圭祐は箱で押されるままに後退し、ギラリと光る猫のような目を見返した。

「あの、余計なお世話だった?」

 大なり小なり、他人に助けられる事を良しとしない宏幸の性格を鑑みれば、余計なお世話だったのは道理。たまたま納戸の前を通りかかったところで宏幸が困っているのを見止め、手を貸しただけだったのだが、自分が親切心でやった事も相手によってはお節介と受け取られる。
 即座に思考を回転させた結果、これは謝らねばと口を開いた。

「余計なことしてごめ……」
「な・ん・で! ひょろっ細いおめーが俺と同じ身長なんだよ!?」

 宏幸は箱を投げ捨て、ぽかんとした圭祐の肩を掴む。

「お圭、身長いくつだ」
「え、五尺八寸(175cm)だけど」
「……な・ん・で! 同じなんだよ! 俺とお前がっ!」
「と言われても……」

 揺さぶられるままに、圭祐は何が問題だったんだろうかと考えた。宏幸と同じ身長だったとは知らなかったが、それが今この場で、なぜ取り上げられねばならないのか。
 一方、宏幸は圭祐の全身をくまなくチェックし、自分より手足も腰も細く女顔、よく出来た「隠密衆の女房」だと隊士達が囃し立てるのも納得だと思っていたこの男が、自分と同じ背丈でありながら自分が届かなかった箱を軽々と取ってみせたのだ。これはどういうわけかと、原因究明に当たらないわけにはいかない。

「よし、隆さんに背測ってもらおうぜ。納得いかねえ」

 鼻息も荒く先陣切って納戸を出て行った宏幸の後を追い、圭祐は投げ捨てられている箱を拾って廊下に出た。箱に御用だった肝心の宏幸はさっぱり忘れているらしい。
 納得行かぬところで、どちらにしろ宏幸が縮んだか何がしかのハンデがある事は明解である。




 衛明館内、大広間と呼ばれる場所は主に、夏場は隊士達が打ち上げマグロになる巨大ビーチであり、冬場は隊士達がサル団子になる巨大ズーラシア。まともに広間の役割を果たすのは三食の飯時と討伐の前後だけという、畳の目も思わず涙を流すようなプレイルームであった。

「昨夏の一件でどうなるかと思ったけど、何とかみんなで年を越せたね」
「……遠征のたびに怪我人が通常の三倍は出ましたけどね」

 縁側でそんな話をしている着物姿の男が一人、隊服姿の男が一人。
 昨夏の一件とは、隠密衆における事実上の大黒柱、つまり主戦力だった元・龍華隊(りゅうかたい)隊長、貴嶺 沙霧が辞めた事だった。人間離れした戦力で隠密衆を隠密衆たらしめた“姉御”無き半年間、討伐時は往々にして全滅の危機を垣間見、氷鷺隊(ひさぎたい)隊長であり現役隊士の中で最年長の寒河江 隆が主戦力を賄っている現在に至る。

「最も怪我人が多かったのは保智の班だっけ?」

 まるで釈迦のように善良な微笑を浮かべ、痛いところをぐさりと突いてくる隆の隣で、隊服の裾を意味もなく弄っていた能醍 保智(のうだい やすとも)は渋面を作る。作るというより、それはすでに彼が毎日幾度となく無意識に浮かべている、習性とも言うべき表情だった。

「至らなくて申し訳ありません……」
「うん? ああ、責めたわけじゃないんだよ。統計の話をしただけで」

 隆率いる氷鷺隊の二班班長である保智は、持ち前の無自覚被害妄想癖と不器用な性格が祟って己に痛撃を与えるのが得意であり、嘘か真か天然の毒気が滲む隊長の言葉を聞いて自己反省に落ち込んだ。

「たっかっしさーん! ちょっといいっスか?」

 保智の悩みなど米粒の繊維ほども知らないであろう宏幸が、広間に入ってくる。その後ろから、自分の相方である圭祐がトタトタと小走りに続いていた。

「なんだい?」

 宏幸から勝手に師と仰がれている隆は、振り返って後光を振りまく。

「お圭と俺の身長、測って欲しいんだよ。納得いかねーことがあって」
「いいよ。じゃあこの柱に並んで」

 どこの保父とガキだろうかと、夏もまだ来ぬ一月の広間でさっそくマグロになっている隊士達は心中思った。マグロになりつつ身を寄せ合っているので、マグロ団子の状態である。

「同じだよ。二人とも」
「マジで!? 棚の上のもんが俺に取れなくて、なんでこいつに取れるわけ!?」
「ははぁ、そういうことか」

 得心のいった顔で笑う隆を、宏幸と圭祐は同時に見上げた。隆は二人の腕を取って前方に伸ばし、それぞれの中指の先を持つ。

「圭祐の方が、宏幸より腕が長いんだよ。ほら」

 再び絶句した宏幸に、隆は追い討ちをかけるような指摘まで無自覚に言い放った。

「上半身は宏幸の方が長いねえ。腰帯の位置がここだから」
「ど、胴長だって言いたいんスかーッ!?」
「いや、上半身が長いと」
「同じ事じゃないっスか! だぁっ、もう誰か隆さんの天然毒舌を止めてくれよ!」

 彼らの足元に座っている保智は、悩みや自分の欠点を冗談のように受け取れる宏幸が羨ましいと密かに思う。が、宏幸にしてみれば冗談じゃねえ、というのが事実だった。
 人の悩み方は人それぞれである。



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