我輩はネコである
二、
前を向けというので宏幸は正座のまま半回転して甲斐と向き合った。切り終わったばかりの後ろ髪を触ってみると、痛んでいた部分が綺麗に削ぎ落とされている。それでいて短すぎず、要望のシャカシャカ具合もばっちりだ。
「うめえじゃん。今度から頼むぜ相棒」
上機嫌な自分に反して、甲斐はあからさまに不機嫌顔。しかし相手のご機嫌など知った事じゃない宏幸は、こんな時でなければ絶対に正面から向き合ったりしないだろう甲斐を見上げた。
「いやに嬉しそうだネ」
手に付いた切り屑を窓の外に払っていた甲斐が向き直る。
「おうよ。器用な奴が身近にいると便利だし」
「便利……ネェ。ふうん、便利か」
明後日の方向を向いて嘆息した甲斐は、やる気なく宏幸の前髪を掴んで櫛を通してきた。ささやかな仕返しなのか、額にまで櫛の先を滑らせる。甲斐に限ってその程度の嫌がらせで済むはずもないが、何と言っても宏幸はバカである。鈍感レベルは保智の比ではないが、宏幸もそこそこの鈍さを誇っていた。
「さて、前髪を揃えましょうかネ。上向いて」
そう言って顎を持ち上げた甲斐が、ふと動作を止めて凝視してくる。必要以上に長い時間をかけて見つめられ、宏幸は顎を上げたまま眉を顰めた。
「もしもし? オニシバさん?」
無言で人の顔に食い入ってくる相棒の表情が、突然ふわりと和らいだ。
自分の心臓がボコンと音を立てた理由も分からず、宏幸は耳が熱くなるのを感じて目を逸らす。が、意に反してなかなか逸らせない。そればかりか、睫毛の本数さえもが分かるほど甲斐の顔に見入っていた。
その理由を親切にも教えてくれたのは、他でもない目の前の別人。
これでもかと艶たっぷりに微笑した甲斐が、さらに顔を近づけて声を落とす。
「おれ系統の顔が好きなんだろ。ヒロユキは」
開いた口が塞がらないとは、まさにこの事だった。
毎日毎日、来る日も来る日もスカシ面。元々の顔立ちがどうとか以前に、いけすかねえ奴だとしか思っていなかった四年来の相棒が、よもや自分にエロ目ならぬ色目を使ってこようとは。
知り合ってから一度も見た事のない微笑───嫌味を振りまく時の毎度お馴染み顔や、人をコケにしている時の毎度お世話様な顔とは180度違い……
何と譬えればいいのか。
「こうして見ると、ヒロユキは結構かわいい顔してるよネ」
「かわ……な……へッ!?」
条件反射で身を引こうとしたが、顎を掴む甲斐の手は一ミリたりとも揺るがず。
その口元がニタリと笑うのを垣間見た瞬間、宏幸は遠慮もなしに胸を蹴り飛ばされて畳に引っくり返った。
「あだっ!」
強かに打ちつけた後頭部に手をやり、何事かと半身を起こす。
「てめ、なにす……」
「中払いでも頂こうかと」
前髪はその後に、と言って短刀を隅に置いた甲斐が、起こしかけた上体をさらに踏み倒してから圧し掛かってきた。
一体全体、この不気味な展開は何なのだ───甲斐を怒らせるような事をした自覚はあったが、たかが髪切り。その程度でこの嫌がらせは度が過ぎる。
宏幸は高速回転で脳味噌を巡らし、閃いた原因を口走った。
「色街が休業だからって、んなキレることねーだろ!」
「……は?」
どうやら違うらしい。ならばと、さらに閃いた原因を叫ぶ。
「お前の趣味なんか知らねーけど、欲求不満ならヌケサクにでも頼めよ!」
「……欲求不満?」
ではないのか。ならば……ならば……。
「いくらお前が綺麗な顔してたってな、俺は野郎なんか抱きたかねんだよッ!」
呆然と見下ろす相棒を見て、宏幸はやはりそういう事かと睨みつけた。甲斐になど興味はないが、このテの顔なら男ともいたすのだろう。自分の班の隊士にも甲斐といたしてみたいとか何とか、血迷った命知らずな妄想を抱く奴はざらにいる。
それがなんと、だ。
「考え直せよ、甲斐。髪切りの礼は酒でいいだろ? な、な?」
何でも奢り酒で解決できる虎卍隊の掟に則り、宏幸は甲斐の肩を押し返しながら穏便に取り引きしようと試みる。
しかし相棒の口から放たれた言葉は、浄次のホモ疑惑どころではなかった。
「おれがいつ抱いてくれなんて言ったっけ?」
「…………は?」
この図式を見れば、やろうとしていたナニソレは一目瞭然じゃないのか。
「だって俺が下でお前が乗っかってきて……え?」
何がどうだか分からない。
宏幸は肘で上体を支えたまま、ぽかんと甲斐を見上げた。
その面が、その唇が、一対の眼を除いて魔性の笑みを浮かべる。
───不吉の前兆。
……が、宏幸は不覚にもまた見惚れている自分に気付いて生唾を飲み込んだ。
見慣れている臙脂の鉢巻はその額になく、いつもは緩くセットしてある髪が風呂上りで洗いざらしのまま。よくよく相棒の容姿を見ていなかったとはいえ、宏幸は自分の好む顔立ちが総じてこのテであるという事を今まさに思い知らされた。
身近で言うなら沙霧然り、その四神である朱雀然り、はたまた皓司然り。
つまりはクールで細面の色白美人好き。
その誰もに下心を働くほど不埒な性格ではないが、好きな顔といえばそういった部類なのだ。性格は個々様々だが。
甲斐を見れば見るほど赤面していく自分を呪い、唇を噛み締める。
そんな宏幸を嘲笑うかのように、甲斐は肩に手を置いて重心をかけてきた。
「ヒロユキが下で、おれが上で」
「お、おう……」
「そしてお前が喘ぐ、と」
「おう…………って、俺かよ!!」
「よく出来ました」
などと褒める甲斐の目は笑っておらず、しかしそれがまたクールで云々の宏幸には、逃げるべきなのか見惚れて餌食になるべきなのか判断がつかない。まごついているうちに片手を取られ、畳の上に封じられた。
「可愛い子は好みでね。悪いようにはしないから、大丈夫」
何が大丈夫なものか。
美しきモナリザの微笑みを拝見する限り、絶対に大丈夫じゃない───
襟を掴んで広げ始めた甲斐の下で、宏幸は赤とも青ともつかない石像と化した。
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