澪 標 -みおつくし-
二、
何が原因だったのか分からない。
指揮が悪かったのか、隊士の腕が悪かったのか。
それとも敵が一枚上手だったという事か。否、それでは話にならない。
どんな相手であろうとも、完膚なきまでに叩き潰さねば意味がない。
それが、組織を率いて一年目の今日にして初めて叶わなかった。
累々たる屍の山に隊服が混ざっている。一人や二人ではなく、何十という隊士の骸が眼前に積み上げられた。
死して間もない屍から流れ続ける血。
何がこの血潮の原因だったのか。
己か、隊士か、敵か。
屈辱の征圧を終えて帰途に就いた時、後に続く足音は半分にも減っていた。
無言で疲労と黙祷を語る足音が耳から離れず、誰も口を開かなかった。
「相模に行って来る。皆ゆっくり休め」
衛明館へ帰っても腰を落ち着ける気にならず、水を浴びて広間へ顔を覗かせた。
仲間を失って消沈した隊士達の表情を見ると、無性に腹が立ってくる。だが自分の所為か他人の所為かも分からないうちは成す術もない。
遣り場のない憤りを抱え、足早に江戸を出た。
不吉な色をしていた夕闇は静かに西へ落ち、濃紺の闇が東から昇る。
雲の絶え間に現れた月は、刀で両断したような半月だった。
相模の実家には顔を出さず、戸口の前を通り過ぎて数軒先の屋敷の門を潜る。
石畳の両脇に広がる庭はただ広いだけでなく、自然と和とが一分の狂いもなく調和され、静謐な趣を醸し出していた。添水の尻が一定の間隔を置いて石を叩く音が聞こえる。
いつものように庭へ回り、稽古場になっている座敷の縁側に腰を下ろした。
普段ならこの時間でも誰かしらそこにいるはずだったが、今夜は人どころか花器一つさえ畳に置かれていない。
何かあったのか、来る時間を間違えたかもしれないと思っていると、家主である男がいつの間にか障子の向こうに立っていた。
「浄正か。久しいな」
齢二十三にして早くも弟子幾百人を抱える華道の名門、斗上の当主が微笑を浮かべて縁側に膝をつく。着流しの裾を裁く手付きの雅さに、束の間視線がいった。
「いつもより強い血臭をつけているが、戦か?」
「終わったばかりだ」
簡単に見通してくれる。
血などに縁のない瀞舟は、血の臭いが嫌いで鼻につくというより血の臭いが好きなのかと疑いたくなる事がしばしばあった。
血臭を帯びてここに来ると、開口一番こうして面白そうに尋ねるのだ。
その割りに、刀を持たせても竹刀を持たせても稚戯という他にない腕を見せる。
知り合って数年は本当に弱いものだと思っていたが、どうやら本領は人に見せないだけのようだった。
本気で手合わせを願いたいと頼んでも、あっさり断られ続けて三年が経つ。
「今宵ここへ来たのも何かの縁というもの、一つ見て行かれてはどうだ」
「何を? 花なら遠慮するぞ」
そんな気分ではない事は百も承知だろうが、嫌味ならこのまま帰ってやろうかと腰を上げかけた。
瀞舟は涼しげな笑みを浮かべて立ち上がる。
白い面が、一瞬意地の悪い笑みに変わった。
「鬼の心では花の姿など見えぬ」
通されたのは、初めて赴く奥方の部屋だった。
逼迫した唸り声が聞こえ、重い病にでも掛かっているのかと入室を躊躇う。
その背を、瀞舟の白い手がつと押した。
「今のお前には刺激が強かろうが、命とは斯くの如し。よく見ておかれよ」
部屋の中央に敷かれた褥に、腹の膨れた奥方が横たわっていた。
布で覆われた足元を老婆が覗き込み、その傍らに湯気を立てた大きな桶が置かれている。
世継ぎが生まれる日に居合わせたらしい。
場違いな時期に来たものだと戸惑った時、奥方が悲鳴に近い声を上げて仰け反った。
初めて見るその光景に、猛烈な吐き気が襲いかかる。
叫び声が白昼の戦に重なり、呻き声が肉を貫く感触を呼び覚まし、もがく手が血溜まりを掻き回す。
生命の終わりと始まりは、同じだ。
やがて聞こえた産声が、死に絶える者の断末魔に重なる。
血の赤がどっと目の前に溢れて広がり、染みを作っていった。
ひんやりした手が額を覆う。
「やはり刺激が強すぎたようだな。お前は血を見過ぎている」
放心していたらしく、視界が霞んで見えた。
家具の一つ一つがはっきりと見えてくると、辺りがしんとしている事に気付く。
部屋には瀞舟と眠っている奥方、そして産着に包まれた赤ん坊がいる。産婆はすでに帰った後だった。
壁伝いに立ち上がり、瀞舟の腕に抱かれてる小さな赤ん坊に視線を落とす。
奥方に似ているのか瀞舟に似ているのか、産まれたばかりでは分からなかった。
ただ、産まれたばかりにしては赤味が薄いように感じる。
肌の白い両親から出来たのだから、肌の白い子供になるのだろうとは思った。
「女であれば名前を考えていたが、男だった。今から考えねばならぬ」
言いながら、瀞舟は腕の中の赤ん坊を押し付けるように手渡してきた。
「おい、渡されても困る」
「困る事はない。頭を支えて、そうそう、こうやってな」
困ると言っているのに胸へ押付け、人の腕を取って然るべき場所へ導く。
うっかり落としたでは済まないものを抱えさせられ、必要以上に緊張していた。
赤ん坊の重みを腕に感じ、胸元を見れば小さな両手が顔の前で強く握り締められている。
閉じて開かない目は、しかし屍のそれとは違った。
こんな小さな体で呼吸し、己の身を守るべきものは何一つ持たない弱き生命。
一人前になるまで、どのようにして身を守ろうというのか。
すべての人間はここから始まる。
だがこんな弱い生き物がどのように成長するのか、具体的には想像できなかった。
今手を離せば呆気なく死んでしまう脆い命は血の中に生まれ、
一刃を受けて呆気なく死んでしまう儚い命は血の中に息絶え。
何度生まれても死に、何度死んでも甦り。
廻る果てに在るものの意味すら分からぬまま、血の中で生死を繰り返す生命。
何ゆえに多くの命が無に帰したのか分からない。
至らないのなら、至らない部分は何かと問いたい。しかし誰も答えてはくれない。
答え無きものを背負い、命在るものを背負い、燃え尽きるまで逃れられはしない。
ここに生まれた命の行く末を案ずるのは、自分の行く末を案ずるのと同じ事だった。
「その涙は新たな命を祝するものか、亡き命を弔うものか」
「命の非力さを嘆くものだ」
「見誤るな、浄正。自惚れが強すぎるから非力だと感ずるのだ」
赤子を見ろ、と瀞舟は腕の中を指差した。
細い指を赤ん坊の手に絡ませ、小さな手がそれを握る。
「赤子は非力ではない。何も持たぬが故に、守られる強さを備えている」
「赤ん坊はな。だが俺は違う」
「自惚れなど持たねばいくらでも先は拓ける。自惚れなど持っているから過去の己ばかり目の敵にして今を見ず、前方に屍ばかりを築くのだ。───分からぬかな」
「分からんな」
意地になって突っ撥ねた。
漠然とだが、心の臓を抉るような指摘をされたのだと痛感する。
自分の力に自惚れている証拠だった。
「さて、名は決まったか」
「何……?」
「命の終わりと誕生。生命の輪廻を一日で見た縁起のよい浄正に名を付けてもらおう」
血濡れた一日に縁起が良いも悪いもない。
「子がいずれ厄ばかりを背負うようになっても知らんぞ」
「その時はその時、お前に責任があると教えておくから心配はいらぬ」
相変わらず何を考えているのか掴めない男だ。
全身を委ねて安らかな寝息を立てている赤ん坊を見下ろす。
腕に抱いた時から、一つの字が浮かんでいた。
瀞舟と奥方のどちらに似ても、相当な美貌の男になるだろう。
皓々と照る月夜に生まれた子供。
如何なる赤にも穢される事のない、白き光のように。
「 皓 ───白を司ると書いて、皓司にしよう。瀞舟」
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