澪 標 -みおつくし-


三、


「───浄正様」

 ふと静かな音色に呼ばれ、その声が自分の『名』を口遊(くちずさ)むのを耳にするのは久しぶりだと、ぼんやりした意識の中で感じた。
 長すぎるほど長い年月をかけて背に担ってきた重荷を下ろし、これまで『御頭』と呼んでいた者達はこぞって『先代』と呼ぶ。共に一陣を退いた皓司も、当然のようにそう呼び続けていた。

 彼の声に自分の名を呼ばれるのは、子供の頃の記憶しかない。
 それほどに珍しい事だが、名で呼べとも呼ぼうかとも口にした事のないお互いには、それは些細な秘め事のようなもので。
 秘密の箱を開けて中を確かめたい時は開ければいい。
 それと同じで、呼んで何かを得たい時は呼べばいい。

 求めているのは其処にある存在。
 得られるのは密やかな自己満足。


 身を捻ってこちらを向いている皓司の顎を捕らえ、口を寄せた。
 刀よりも鋭く、光よりも柔らかい一対の双眸が、影となって闇の中へ消える。
 微かに触れた唇の温かさに一瞬躊躇い、肉の先を啄ばむだけの戯れに終えて離した。
 互いの口に息を吹き込めるほどの距離を置いて、彼の息遣いを感じ取る。
 唇と唇の僅かな隙間で絡み合う吐息と、無言と、誘惑と。
 紛れもない、生の証。

「自分がいま生きているという事を考えた事はあるか? 皓司」

 言を発すると彼の唇へ先が触れ、またそこへ軽く口付けを落とした。
 顎に添えていた手を喉元へ滑らせ、しなやかな筋肉をつける上腕を這い下りる。
 脱がしかけていた浴衣を、腕に添って勿体ぶるように下ろしていった。
 勿体ぶっているのを読まれたのか、皓司の唇から弾んで出てきた強い息が自分の肉の上で弾む。

「生きている事について今考えるのは、自分で帯を解こうか、それとも貴方の帯を解くのが先かという事だけです」

 言いながら軽く腕を押して身を引いた彼は、つと立ち上がって見下ろしてきた。
 片膝をついて見上げる自分の顎に、今度はその手が伸びてくる。

「命が惜しければ過去は顧みない事ですよ。如何なる時も」

 顎の下に触れた切先が、皮膚に小さな穴を穿った。
 彼が動かしたからではなく、息を呑んだ自分の喉が上下したからだ。
 ぷつりと皮膚を破った懐刀の柄を握る皓司は、闇夜を背に青白く光る肌を半ば曝け出したまま、艶然と微笑を浮かべる。
 下ろされている左腕の袖から掌へすとんと鞘が落ち、懐刀を収めた。

「少々遊びが過ぎましたか。手当てが必要でしたら、奥へ」



 凛、と再び風に煽られた風鈴が音色を奏でる。
 池の周りを飛び交う蛍は時の流れを忘れさせ、見る者を人知れぬ幻想へと導く淡い光を灯して浮遊する。幾百、幾千の魂を運び、水辺の安らぎをそれにもたらしていた。

 過去を振り返ってなどいない。
 しかし、そうでなかったと言える自信もない。
 幻の血を夢に見て、現の血を指先に見て。
 飛ぶ蛍の光に不浄の魂を見ている。

 過去を顧みていた。
 彼の指摘通り、束の間過去の今日を生きていたのだ。


 苦笑して立ち上がり、もう一刻半も敷きっ放しになっている自分の布団へ足を向ける。
 枕元の燭台に灯りを入れた皓司を引き寄せ、褥の上に押し倒した。捕らえた手首を頭上で捻じ伏せ、組み敷いた下肢を割って膝を置く。
 苛立ちを感じ始めた衝動の赴く儘に、腰の下へ腕を回して帯を剥ぎ取った。
 緩く閉じている袷の裾から手を差し入れ、下肢を覆うものを取り除いて内腿から鼠蹊部を指の腹で撫ぜる。膝を立てて軽く浮き上がった腰が袷をさらに広げ、左右に開いた。

 月明かりに照らされた生肌も息を呑むほどだが、燭台の灯りに浮かぶ陰影の濃い肢体は、それだけで艶めかしい魔性を放つ。
 下腹部の闇から腹へ、腹から胸へと引き締まった身体を眺め、気を緩めれば何もかもを根こそぎ吸い取られそうな引力に眩暈がした。

 両の胸元だけを覆い隠す浴衣を肌蹴るのは、まだ勿体無い気がする。
 夜は長い。
 急がずとも、夜の命は長い。


 影を作る顎の上で、灯火に照らされた皓司の目が見上げていた。
 細い睫毛がふさりと揺れ、彼の色付いた唇が開く。

「手を離して下さい。合意でしょう」

 生娘を相手にしているわけでもないのに、彼を困らせたくて仕方ない自分がいる。
 押さえつけている手首に一層力を込めると、刃物の上の美眉がぴくりと吊り上がった。
 顰めないところが彼らしいといえば、それまで。
 何者にも屈さず、己の身にも屈さない強かな精神力を崩したいとは思わないが、遊ぶくらいは許される。

 手を添えると容易く熱を帯びた欲望を包み、焦らすように弄んだ。
 喉元に喰らいついて皮膚を舐め上げる。仰け反った首に紅い華跡を付け、その上を舌先でなぞっていきながら耳朶の膨らみを口に含んだ。

「嫌だと言ったら?」

 口の中の柔らかい肉と手の中の硬い肉を持つ身体が、ふっと力を抜く。

「聞き入れると思いますか?」

 そう来るだろうと思っていた答えに顔を上げ、彼も予測している答えを返した。

「じゃあ言おう。嫌だ」

 互いの口元に笑みが浮かぶ。
 悪戯めかした子供のような心境で。
 探り合う空気を孕んだ風に、燭台の火が揺れた。




 一糸纏わぬ生身の肌から、熱という熱が滲み出す。
 絡み合う欲望と支配が巨大な影となり、壁を伝って妖しく揺らめいた。
 滑らかにしなる背を抱き、奥底を求める欲に身を任せてゆっくりと腰を突く。
 一つ突けばその唇から吐息が零れ、また一つ突けばその唇は緩やかな弧を描いた。
 名を呼び、名を呼ばれ、共鳴し合う音のように呼吸を交わして夜に溺れていく。

 求めるのは、底から放たれる眼差し。
 得たいのは、密かに願う過去の浄化。

 この身を縛する全ての鎖を解き放つ者がいるならば、彼がいい。
 慈悲など与えず、動脈を切り裂いてでも血の上に立たせようとする。
 屍を踏み越え、血の上に立つ事は傲慢ではないと粛正してくれる彼ならば。
 血臭に噎せ返る白昼の闇から、いつか解放されるだろう。


 強い風が吹いた。
 灯火が消え、盲目となった夜の中に濃密な体液の匂いが溢れる。
 顎から滴り落ちた汗の行方を追い、濡れた彼の胸に口付けた。
 放熱する身体を折り重ねて背を抱き上げようとすると、それを拒んだ皓司は自ら上体を起こして息を吐き出す。

「肝心な事を忘れていました」

 溜息のような吐息が鼻先をくすぐり、顎の下で小さな傷になっている箇所を指でなぞられた。その指先が喉を下っていき、汗ばんだ胸の中央で五指に変わる。
 ぐいと押されて、何の抵抗もなく褥の上に倒れ込んだ。
 圧し掛かってきた身体はまだ熱く、脇腹に触れるとしっとり汗ばんでいる。

「貴方がつまらない事をするからですよ」
「肌蹴た浴衣姿についつい欲情して気が急いた」

 いい年をして、と棘を刺す皓司の唇が降りてくる。
 それは重なるところへ重ならず、顎の下へ触れた。


「手当てが必要だから、ここに居るのでしょう」

 熱の塊が傷を覆い、皮膚に絡みつく。
 薄い皮膜に塞がれた穴に歯を立て、膜を食い千切られた。
 再び流れる血は屍の下でもなく、土へ沁み込むでもなく。
 かつて腕に抱いた名付け子の、血よりも温かい血の流れに浄化されていく。

「鞘は、どの刀でも収められるわけじゃない」
「刀は、どの鞘にも納まるわけではありません」

 最初に選んだのがどちらであっても同じ事。
 錆び付いた鞘の空洞を埋めるのは、ただ一振りの刀。
 白昼に翻り、黒夜に閃き。
 共に亡びる、その時まで───





波間をたゆとう浮舟の如く
此の夜は今も ただ静かに

身を尽くし果て (しるべ)を乞う
白き光の 示すが先へ








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