澪 標 -みおつくし-


一、


 凛、と軒先の風鈴が鳴る。
 晩夏の夜風は人肌程度に生温かく、かと思えば一瞬、秋の到来を思わせる冷たい風が肩を撫でて家の中へ入って行った。

 毎年の今日、懐かしいと感じる夏の夜の香りがする。不思議なもので、それは前日でも翌日でもなく、六月二十九日その日にだけしか感じない。
 二十年以上経った今でも色鮮やかに、その日の出来事は記憶に残っていた。

 ぎらついた太陽の下、噎せ返る血臭と死体の山。
 しんとした宵月の下、生命の誕生を告げる産声。

 組織を率いる事の重さに初めて押し潰されそうになった、屈辱の一日の終わりに誕生した小さな生命。
 人の命を奪い、仲間を失い、多くの犠牲を出した後の新たな生命を見て、わけもなく涙を流した日。
 それはまだ自分に妻も子も居ず、ただ己の道だけを見ていた十九の頃だった。




「今年も、物思いに耽っておられるんですか」

 風呂上りの浴衣を羽織った皓司が、言いながら隣に腰を下ろす。
 肌の上で蒸発した湯の匂いが微かに漂ってきた。

「年を取るとあれこれ考え込む事が多くなる」
「若いうちに何も考えていなかった証拠です」
「あ、今『嘆かわしい』って付け足そうとしただろ」

 顔を見ずとも姿を見ずとも、その先に伏せられた言葉は空気を通して伝わってくる。
 皓司は悪びれなく「そうですよ」と口にし、団扇を扇ぎながら月を見上げた。

 側面から眺めても崩れるところのない麗顔は、一点の曇りもない研ぎ澄まされた刀のような印象を与える。それが内面から表れるものなのか元々の容貌なのかは、どちらとも決め付け難い。
 確信を持って言えるのは、生まれた時からこんな刃物のような容姿はしていなかったという事だけだ。

 幼少の面影はほとんど無く、あるとすればただ一つ、冷めた視線の奥に覗く野心のみ。
 何に対しても無関心に見えるが、根は誰よりも負けず嫌いで野心家だと知っていた。
 その部分だけは何年経っても変わらない。
 華道の宗家に生まれ、野心や闘争とは無縁の環境に育ちながら、物心ついた頃から彼が熱心に見ていたのは花でも父の背中でもなく、何故かこの自分だった。



「小さい頃のお前は、いつも俺を見ていたな」

 仄かな月光に輪郭を浮かばせるその肌に触れたくなり、顎の下に手を伸ばす。

「鉄すら切り裂きそうな目で」

 隆起している喉の骨を指で撫ぜると、微かに彼の口元が緩んだような気がした。
 乗ってきてくれるかと思った矢先、やんわりと手を押し返される。

「それは貴方でしょう」

 庭の池に飛ぶ蛍の群れへ視線を移した皓司は、団扇を止めてそっと傍らに置いた。
 まるで、たおやかな花を扱うように。
 ちょっとした所作にも自然と気品が滲み出る。
 優雅でありながら、世俗の一切を寄せ付けない白銀の刃そのものだ。
 微塵も隙がない。

 隙のない相手には、隙を作らせたくなる───


「初めてお前の身体に手を出したのは、いつだったか」

 羞恥心などその身に存在しないと分かっていても、不意を突く程度の事はできるだろうと思った。
 しかし思惑は見事に外れ、相変わらずだなと苦笑を誘う答えが返ってくる。

「十二ですよ。ご自分で手を出しておいて忘れるとは、薄情ですね」

 悪戯めかした声で、皓司はやっとこちらを向いた。
 刀の切っ先を向けられたような、冴え冴えとした眼光に血が燻ぶる。

 欲しいと思ったものは何でも手に入れてきた。
 手に入れたものは気の済むまで好きにしてきた。
 それでもまだ飽き足らないのは、自分が貪欲すぎる所為だろう。
 貪り尽くしても足りず、飢えた獣さながらに強欲になる。

 皓司はこちらが今何を欲しているのか解っていた。
 解っているから、こういう視線で挑発してくる。
 そんなつまらない誘い方では応える気にもならない───と。


 燥灼する身を持て余し、如何にすれば彼が満足してくれるだろうかと考えた。
 片や居住まいを正して取り澄まし、片や胡坐を掻いて気難しい顔をしている。
 おかしくなった。
 いい男が二人して夕涼みをしながら、水面下では些細な心理戦を繰り広げているのだ。
 それも、始めてしまえばどうでもよくなる無意味な事に頭を悩ませている。


 胡坐を解き、立ち上がって背後へ回った。
 しっとりと水気を含んだ髪に指を絡ませ、こめかみから頬へと手を滑らせる。
 体温はあれども、掌を通して伝わる熱は熱と呼べるほどのものではなかった。
 何に触っている感触だと例えればいいだろうか。
 陶器というほどには温もりがなく、絹布というほどには繊細でもない。

 濡れた髪を掻き上げながら、項に軽く唇を押し当てる。
 檜の匂いが微かに香った。風呂の縁に頭を乗せていたのだろう。
 肌を吸い上げる舌を耳朶に這わせ、緩やかな曲線を描くそれを舌先でなぞっていく。
 自分の方が感じて熱を帯びてきた。
 彼を相手取るたびにいつも思う。
 脳髄の芯まで砕かれるような、ある種の感覚にそっくりなのだ。

 この世に二つと無い名刀を手にした時の、あの何ともいえない痺れ。
 傷も曇りもなく打たれた白刃に落ちる光の陰翳を見て、堪らず息を呑む。

 そんな感覚を、この肌に触れるたびに感じていた。


「刀、だな」

 首筋から前の袷へと片手を滑らせ、とうに乾いている胸の上を弄る。

「何がですか」
「お前という存在が」

 脳から意思を伝達するまでもなく、左手が自然に襟を掴み、肩から引き下ろした。
 女のそれとは違う、強靭で凄絶な生肌が闇に浮かび上がる。

 肩越しに振り返った皓司の、そこだけ色を差した唇がゆっくりと開かれた。
 艶めかしい色艶を放ち、歯列の奥で生き物のように蠢く肉塊に魅入られる。

「では、貴方という存在は鞘ですね」

 その色に、その生命に、白昼の血の赤がまざまざと甦った。





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