徨い唄
ぬし さま 約束の刻が とうに 過ぎました …を 返して下さいな どうか どうか 主様 …を かえして 「はい、手毬の貝の紅。遅くなってごめんね」 紅を渡すと、手毬はほっと息を吐いて微笑んだ。 「これであの方へ嫁ぐことができます」 「お嫁に行く前だったんだね。十年なんて言わずに早く返せばよかった」 「大丈夫です。相手の方も人間ではありませんから」 「そっか。幸せになるんだよ」 「あなた様も……」 自分が見ている夢なのか、手毬の思いの具現なのか。 この日を迎えられなかったんだから祖父の記憶じゃあるまい。 「ぼくの柘植櫛を」 「……お願いです。どうか三回拾って下さい」 「どうして?」 堰を切ったように、手毬の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。 「人間の世界では、櫛を拾った者に不幸が訪れると聞きました。妖しの私が触れた櫛を、あなた様は一度拾ってしまったでしょう」 だから三回拾って妖しの気を祓うのだ、と。 人間の迷信では踏みつけてから拾えば一回で済むと言うと、手毬は驚いて顔を赤らめた。 「そうなのですか……それで私の妖気は祓えますか?」 「わかんない。でも触れたのはきみだし、いいよ。三回拾おう」 手毬に櫛を投げてもらい、一回、二回、と拾っては地蔵の足元へ置く。 三回拾って置くと、手毬はなぜか急に慌てて謝ってきた。 「やだ、私ったら十二回も投げてしまいました」 「ん? 三回だよ?」 「え?」 人間と妖怪の感覚が違うせいか。 どちらにしろ三回は確実に拾ったので、地蔵に手を合わせて櫛を取り上げた。 「この櫛はね、結婚前の妻に贈るつもりだったんだ」 「大切なものだったのですね。申し訳ございません」 「新しいのを買って間に合わせたよ。だから、これは手毬にあげる」 簪一本でまとめられた手毬の結い髪に桔梗の櫛を挿し込む。 「うん、綺麗だ。手毬は秋の花が似合うね」 自分は───あるいは祖父は───ふいに畦道を振り返り、手毬に向き直った。 「呼ばれてる。もう帰んないと」 「はい。…どうぞお元気で」 「ねえ。度々危険な目に遭わせてたのはきみの怨念だけど、取り憑いて夢を見せてたのは本来のきみだよね。“苦死”を避ける為にいつも三回櫛を拾わせた」 そうだったのか。 たしかに夢の中で影に襲われるような危機感はなかった。 櫛を踏ませなかったのも彼女が人間の迷信を知らなかっただけで。 空へ吸い込まれたあの力は、怨念が現実へ引き戻したからだろう。 「きみは力の弱い妖しなんかじゃないよ」 また手毬の目から溢れた涙をそっと拭い、華奢な肩を腕に抱いた。 「ぼくの孫を守ってくれてありがとう、手毬」 |
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