徨い唄


九、


 完全に憑依されたら自分はどうなるんだろう。家族を殺しに行く?
 それからエルや朱雀たちを…ああでも朱雀ならきっと自分を殺してくれる。できれば家族に手を出す前にやって欲しいところだが。
 というか、その前に乗っ取られないようにしなければ。

 自我を保とうと必死で足を踏ん張った。全身の毛穴から汗が噴き出る。体が熱い。
 呻きとも叫びともつかない音が頭の中に響いた。言葉にならない怨念の声。家の妖怪たちはキーキーだのぐるぐるだのと声を発するが、こんな声は聞いたことがない。



「凌さん。私と約束しましょう」

 玉枝が自身の口元に人差し指を当てた。だからその仕草は反則です。

「次にお会いするのはあなた様が十二代目瀞舟となられた日」

 細面の顔に朱の斑紋が浮かび上がる。祭りで見かける狐のお面みたいだ。玉枝は微笑し、振袖の袖口を翳して顔を隠した。真っ白い霧が辺り一面に広がり、首をもたげた大蛇のような九つの尾が現れる。
 金色の毛を持つ、巨大な九尾狐。初めて見た。

『その折には、あなた様の花を教えて下さいな』
「…っんな当たり前の約束はお断りです! 断固、断る!!」

 熱い熱い熱い。
 脳みそがぐちゃぐちゃに溶けるような感覚に意識がぶっ飛ぶ寸前だ。自分を取り囲む青い炎が濃くなり、目の前に壁を作る。玉枝の姿が見えない。

「玉枝さん……ッ!」
『そうそう、先ほどの答えを。狐はね───』

 怨念の唸り声が最高潮に達する。体が散り散りになって裂ける気がした。
 カッ、と光った強烈な白い閃光が青い炎の壁を突き破り、自分に襲いかかってくる。
 否、閃光じゃない。口を開けた狐の牙だ。
 それが九尾狐のものだと分かった時には、体から意識が飛んでいた。






 ぬし さま

 約束の刻が とうに 過ぎました
 …を 返して下さいな

 どうか どうか 主様

 …を かえして




「はい、手毬の貝の紅。遅くなってごめんね」

 紅を渡すと、手毬はほっと息を吐いて微笑んだ。

「これであの方へ嫁ぐことができます」
「お嫁に行く前だったんだね。十年なんて言わずに早く返せばよかった」
「大丈夫です。相手の方も人間ではありませんから」
「そっか。幸せになるんだよ」
「あなた様も……」

 自分が見ている夢なのか、手毬の思いの具現なのか。
 この日を迎えられなかったんだから祖父の記憶じゃあるまい。

「ぼくの柘植櫛を」
「……お願いです。どうか三回拾って下さい」
「どうして?」

 堰を切ったように、手毬の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。

「人間の世界では、櫛を拾った者に不幸が訪れると聞きました。妖しの私が触れた櫛を、あなた様は一度拾ってしまったでしょう」

 だから三回拾って妖しの気を祓うのだ、と。
 人間の迷信では踏みつけてから拾えば一回で済むと言うと、手毬は驚いて顔を赤らめた。

「そうなのですか……それで私の妖気は祓えますか?」
「わかんない。でも触れたのはきみだし、いいよ。三回拾おう」

 手毬に櫛を投げてもらい、一回、二回、と拾っては地蔵の足元へ置く。
 三回拾って置くと、手毬はなぜか急に慌てて謝ってきた。

「やだ、私ったら十二回も投げてしまいました」
「ん? 三回だよ?」
「え?」

 人間と妖怪の感覚が違うせいか。
 どちらにしろ三回は確実に拾ったので、地蔵に手を合わせて櫛を取り上げた。

「この櫛はね、結婚前の妻に贈るつもりだったんだ」
「大切なものだったのですね。申し訳ございません」
「新しいのを買って間に合わせたよ。だから、これは手毬にあげる」

 簪一本でまとめられた手毬の結い髪に桔梗の櫛を挿し込む。

「うん、綺麗だ。手毬は秋の花が似合うね」


 自分は───あるいは祖父は───ふいに畦道を振り返り、手毬に向き直った。

「呼ばれてる。もう帰んないと」
「はい。…どうぞお元気で」
「ねえ。度々危険な目に遭わせてたのはきみの怨念だけど、取り憑いて夢を見せてたのは本来のきみだよね。“苦死”を避ける為にいつも三回櫛を拾わせた」

 そうだったのか。
 たしかに夢の中で影に襲われるような危機感はなかった。
 櫛を踏ませなかったのも彼女が人間の迷信を知らなかっただけで。
 空へ吸い込まれたあの力は、怨念が現実へ引き戻したからだろう。


「きみは力の弱い妖しなんかじゃないよ」

 また手毬の目から溢れた涙をそっと拭い、華奢な肩を腕に抱いた。


「ぼくの孫を守ってくれてありがとう、手毬」





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