徨い唄


八、


 十年後です、と耳元で玉枝が囁く。
 田んぼも木々や草花も何ひとつ変わっていなかった。
 地蔵の後ろに手毬の姿が見える。十年、二十年と経っても緋色の着物は色褪せず、彼女の美貌もそのままだった。
 柘植櫛を胸に抱き、祖父が来るのを待っている。
 しかし待てども待てども祖父は来ず───日は山間に隠れ、とっぷりと暗闇になった。

 手毬は暗闇にカラン、と柘植櫛を放り投げる。
 拾う者はない。
 もう一度、またもう一度、櫛を投げた。

「主様……───」

 それから玉枝は一年ごとの当時を走馬灯のように見せてくれる。
 毎年同日、地蔵の後ろに現れては夜が更けるまで立ち尽くし、祖父が来た証の土産がないかと地蔵の足元を見、櫛を放り投げては拾う手を待っていた。
 雨の日も、嵐の日も。

「ぬしさま……これが最後です。どうか、紅を……」

 今日が五十年目らしい。
 手毬は真っ暗闇の畦道に立ち、櫛を放り投げる。

 つかの間の静寂。

(うわっ……!)

 もう少しで声を上げそうになった。慌てて自分の口を塞ぎ、だが瞠目する。
 手毬の身が青く光り、徐々にその光が大きくなっていく。美しい人の姿は見る間に老婆へと変わり、さらに巨大な狐へと変わり、やがて歪な形をした真っ黒い化け物になってしまった。
 これが自分の後ろにいる妖怪なのか。
 血の如き赤い目は邪気に満ち、口からは唾液が滴り落ちている。
 手毬は…否、手毬だった化け物は咆哮のような音を響かせて空へ飛び去った。


 



「……っはあー」
「大丈夫ですか」

 玉枝が水を差し出してくれる。有り難く受け取り、一気に飲み干した。
 自宅ではなくどこか原っぱのような場所にいた。

「大丈夫。それより、あの妖怪はどこに行ったんですか?」
「相模へ。先代様の“気”によく似た凌さんを見つけ、いま憑いているのです」

 この地の妖しは国から出られない、と言っていなかったか。
 玉枝曰く、期日を過ぎて怨念の塊になればどこへでも行けるのだという。自由と引き換えに自我を無くすわけだ。
 “気”とは魂のようなもので、彼らは匂いでそれを嗅ぎ分けるらしい。

「二つ、いや三つ教えて下さい」
「何なりと」
「祖父はどうして十年後に来なかったんです? それまで毎年来てたんでしょう。祖母の命日だと言ってましたし、忘れるとは思えません」

 あの祖父なら大事な日に急用が入ったとしても断るだろう。

「先代様は一週間前にお亡くなりになられたのです」

 ───ああ、そうだったのか。
 祖父が死んだ時の光景を見たいかと問われ、さすがに遠慮した。親父が語りたがらない物事を好奇心に任せて見聞きするのは気が引ける。
 たとえ見たとして、知らないふりを通せば済む。
 だがそれは自己満足に他ならず、親父の為では決してないのだ。

「あと一週間生きていられればよかったのに」
「人の業とはそういうものです」
「業、ね。櫛を三回落とすのは何か意味があるんですか?」

 狐の習性か四国特有の迷信かと思ったが、玉枝は意味ありげに微笑した。

「それは後ろの者にお尋ね下さいな」

 憑いている妖怪は相変わらず見えないし会話もできない。
 玉枝には教えてくれる気はない様子、ひとまず保留にしておこう。


「じゃあ最後の質問。五十年期日だそうですが、数えは四十一年でしたね」


 櫛を落とした最初の年、手毬と約束を交わした十年後、走馬灯のように見せられた一年ごとの光景を、実は数えていた。
 約束した年から彼女が化け物に変化するまで五十年は経っていない。

「さすが瀞舟先生のご子息、よくお気づきで」
「残りの九年はどうしたんですか。彼女が数え間違えた?」
「いいえ。これで五十年です」

 それは卑怯じゃないか、と問い詰めかけた時、背中が燃えるように熱を帯びた。

「ッ……!?」

 燃えるように、じゃなかった。燃えている。青い炎が背中から立ちのぼり、全身を取り囲んできた。苦しくて息ができない。
 妖怪の邪気が一気に解放されたんだと思った。

「たま……っ」

 背中から腹の中へと、何かが侵入してくる異物感。
 乗っ取られる───



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