徨い唄
七、
祖父が近づいてくると同時に、地蔵の影に狐の女が現れる。
女はちらりと祖父を見、懐から取り出した柘植櫛を道端へ放り投げた。
「あれっ、この櫛……ぼくのかな?」
落ちている櫛を拾った祖父が声を発する。
見た目はまともなのにひどく幼稚な言葉遣いで思わずガクリとなった。
あの親父を男手ひとつで育てた父親とは思い難い。
彼はふいに地蔵の方を見て、「こんにちは、狐さん」と声をかけた。
狐の女がびくっと身を強張らせて後退る。
「……私が見えるのですか?」
「うん見えるよ。それよりこれ、きみの落し物?」
女は首を横に振った。
「あなた様が昔ここで落としたものです」
「あーやっぱり! 見覚えあると思ったんだ。持っててくれたの?」
こくりと頷いた女は、お構いなしに近づいてくる彼から逃げようと後退る。
「待って、逃げないで。何もしないよ」
早足に追いついて女の手首を取り、振り向かせた。おお、意外に男らしい。
女はさらに驚いて身を捩ったが、祖父はにこりと笑って頭を撫でた。
「拾ってくれてありがとう、狐さん。そうだ、もしかして紅を落としたのきみかな?」
「……! 私の紅、知っているのですか?」
「あれれ、すごい偶然だ。櫛を失くした翌朝ここに落ちてたよ」
「そこにはありませんでした」
「お地蔵さんのとこに置いたんだけどね、大雨が降ってきたから持ち帰っちゃった。あれから十年経ってるから今日は持ってないんだよ。落とし主に会えるなんて思わなかったし」
ペラペラとよく喋る。もしかしなくても自分は祖父に似たのか。
女はしゅんとして項垂れ、そうですか、と小さく呟いた。
「心配しないで、ちゃんと取ってあるよ。でもぼくの家は相模なんだ」
「相模……遠い」
「だよね、ここ四国だもんね」
四国。
これまたずいぶん遠くの地へ飛ばしてくれたものだ。玉枝は本当にすごい。
祖父はしばらく考え、ぽんと手のひらを打つ。
「ねえ、一緒に来る? ぼくこれから帰るとこだから」
紅を渡したらまた四国まで送るよ、と突拍子もないことを言い出した。
しかし女は首を振り、さらに項垂れてしまう。
「私はこの地の妖しです。この国からは出られません」
「そっか、じゃあ仕方ないね。取ってくるから二週間ぐらい待っててくれる?」
「……そんなにすぐには会えないのです」
祖父が女の顔を覗き込んで首をかしげた。
「二週間後はだめ? いつなら平気かな。ぼくはいつでも構わないよ」
「人間に姿を見られたら、その人とは十年会ってはならないのです」
うちの妖怪たちとは勝手が違うんだなと思った。土地によるのかもしれない。
祖父はふんふんと鼻返事で頷き、女の手に自分の柘植櫛を載せる。
「じゃあさ、また十年後の今日ここで会おう。ぼくは紅を持ってくるから、きみはこの櫛を持ってきて。あと美味しいお菓子も持ってきてあげるよ」
女が目を見開いて顔を上げた。
本当に儚げで綺麗な人だ。祖父は成長したが妖怪は十年前と変わらない。
「約束、ですか?」
「うん、約束」
「人間との約束は、あなた様を主様と認めることになります」
「ぬしさま? 何だい、それ」
「私の主となるのです。その間、私は人間を惑わすことも殺めることもしません」
「それできみに悪影響はないの?」
「特にありません。人間の“気”がつくので山里へ下りやすくなります」
「なんだ、じゃあいいことなんだね」
「……約束を、守って頂けるのなら」
祖父は自分が約束を反古にするなどこの時は考えもしなかったんだろう。
会う約束なんかしないで、またここへ来た時に紅を置いておけばいいのに。
そうしないのも祖父の人柄か。何となく分かる気がした。
七夕の彦星と織姫のような、密やかな楽しみもまた良いものだ。
「妻の命日だからぼくは毎年ここへ来るけど、きみと会えるのは十年後だね。来年からお地蔵さんのとこにお土産を置いておくよ。ぼくが立ち去ったら受け取ってね」
「分かりました」
「そうそう、ぼくの名前は瀞舟。斗上瀞舟。きみは?名前あるの?」
女はふるふると首を振り、手のひらの櫛を握り締めた。
「力の弱い妖しに名はありません」
「ないのか、なら手毬ちゃんて呼ぼう。手毬模様の紅を持ってたからね」
「てまり……」
名をもらって嬉しいのか、女は恥ずかしそうに俯く。
祖父は子供をあやすように頭を撫で、袖から茶菓子を出して女に与えた。
「これはお砂糖のお菓子。息子は甘いものが嫌いだから手毬にあげるよ」
「ありがとう───主様」
晩夏の夕暮れ前のひと時。
ひぐらしの鳴く畦道で、祖父と狐の妖しは五十年期日の約束を交わした。
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