徨い唄
六、
まったく同じ景色だった。現実の場所なのに人っ子ひとりいない。
「私の妖気で覆っていますから、人間は入れませんのよ」
夢と同じ場所へ行こうと誘われ、玉枝の手を取ったらここにいた。どこの国の何という町か分からないが、田んぼの向こうにある家々の造りが少し古めかしい。夢の中では田んぼの先まで見えなかった。相当な田舎だ。
辺りを見渡していると、玉枝はまた袖で口元を隠してころころと笑う。
「凌さん、怖くはないのですか」
「玉枝さんがですか? 全然。それより夢の妖怪の方が怖いです」
「いつもおなかが空いていたでしょう。邪気によるものです。怨念の塊となった妖しは願いが叶うまでずっと空腹なのです」
「それが続くとどうなるんですか?」
「あなた様の大切な者を片っ端から食らい尽くします。その身を借りて」
危うく家族殺しの猟奇殺人犯になるところだった。
シーラが忠告してくれたのはそれでか。なんだかんだで人が良い。悪魔だが。
「じきに先代様が参ります。凌さんの姿は見えないので声を出さないで下さいね」
「当時の再現ですか?」
「再現ではなく当時そのものです」
思っていたより玉枝はすごい力の持ち主かもしれない。
尻尾が九本生えていたりして。
あれこれと想像しているうちに、畦道を歩いてくる一人の若者がいた。
(おじーちゃん、かな?)
十代後半だろうか、少しあどけなさの残る顔立ちだが童顔というほどでもない。よく見れば整った顔立ちの、育ちの良さそうな風貌だった。
しかし着物はお世辞にも上質とは言えない。田舎者のような甚平姿。
顔立ちと着物の質がちぐはぐなせいで身分がいまいち掴めないのだ。
道の真ん中に突っ立っていると、彼はこちらの体をするりと突き抜けた。自分が幽霊にでもなった気分だ。
その瞬間、彼の袖からコツンと何かが落ちる。
(あ、柘植櫛……)
桔梗の花が彫られたあの櫛は祖父の落し物だったのか。
だが彼は気づかず、そのまま畦道を歩いていってしまう。
ほどなくして一匹の狐が現れた。狩りの帰りか野鼠を咥えている。
道端に櫛を見つけると、きょろきょろと周囲を見回してから人の姿に化けた。
綺麗な女性だった。
緋色の着物に金の紅葉柄が艶やかで、こんな人が畦道を歩いていたらみんな卒倒して田んぼに落ちるのではないかと思うほど。
狐の女は細い手で櫛を拾い、くんくんと匂いを嗅いだ。そして四方を見渡す。
落とし主を探しているのだろう。しかし祖父の姿はない。
女は諦めたようにそっと懐へ櫛を差し入れ、また狐の姿に戻って野鼠を咥えて消えた。
(あれ、なんか落ちてる)
野鼠を一匹忘れたのかと思ったが、違った。
(……手毬模様の、紅)
今度は狐が落し物をしていったのだ。
同じ日に同じ場所で人と妖怪が物を落としていくとは。
人と人ならこれが縁となって恋仲にでも発展したいところだが、そうすると祖父は妖怪と結婚して半妖怪の親父を授かることになってしまう。まさかこの女狐が祖母ではないだろう。
夕暮れだった景色がぱっと明るくなった。朝だ。
水田に反射する朝日が眩しい。
(あの人影は……おじーちゃん)
先ほど去った方向から若者が歩いてくる。
地面を見ながらよたよたと歩いているので挙動不審極まりない。
櫛を探しているんだろう。
田んぼを覗いたり草むらを掻き分けたり、よほど大切な櫛だったらしい。
ふと、落ちている紅に気づく。
拾い上げて土埃を払い、道端の地蔵の足元へ置いた。
そして両手を合わせるところも夢での自分の行動にそっくり。
(でもおじーちゃんは紅を持ち帰ってるはず)
はて、と首をかしげていると突然の雷雨。
彼は頭の上に手をやって小走りに畦道を駆け出した。
が、戻ってきて地蔵に手を合わせ、紅を手拭いに包んで袖へ入れると今度こそ走っていく。
高価な紅は濡れると質が悪くなってしまう。それで一旦持ち帰ったわけだ。
祖父と狐の妖怪が互いに同じ場所で偶然落し物をしたのは理解できた。
だが二人にはまだ接点がない。
どこで出会ったんだろうか。玉枝と同じように弟子入りして?
そのまま待っていても景色は変わらず、誰も来ない。
玉枝を呼ぼうとしたが、声を出すなと注意されていたんだっけ。
(ん? ……またおじーちゃんが来た)
今度は普通に歩いてくる祖父の姿があった。櫛を探す様子はない。
よく見ると、先ほどの彼とは顔立ちが違った。
本人には本人だが骨格が少し変わり、少年から青年の顔つきになっている。
着物も甚平ではなく仕立てのいい紺地の着流しに下駄。甚平の時は草履だった。背筋が真っ直ぐなので殊更に風格の違いが感じられる。
親父のような粛々とした雰囲気や威圧感はまったくないが、物腰が柔らかそうで人当たりのいい雰囲気が全身から伝わってきた。
数多の人々から親しまれ好かれていたと聞く通り、確かに彼は祖父だ。
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