徨い唄
四、
「まあまあ、おめでたいお話ですわ。日取りはいつ?」
「急なのですが、先方の都合で長月の初日に」
「えっ明々後日? 急いでお祝儀を包まなきゃ」
「いえ、どうぞお構いなく。式は身内だけで行いますから」
「そうはいきませんよ、大切なお弟子さんの門出ですもの」
「有難う御座います。では本日はこれで…先生に宜しくお伝え下さいませ」
お袋と玄関口で話していたらしい女性が外に出てくる。
門を出てまた一礼し、こちらに向かって歩いてきた。自分に気づくとぴたりと足を止め、竜胆の花をあしらった綺麗な日傘を軽くあげる。
「あら凌さん、ごきげんよう」
「こんにちは、玉枝さん。ご結婚なさるんですか?」
「ええ。摂津へ嫁ぐのでご挨拶に。明日のお稽古が最後になります」
彼女とすれ違う男は誰もが振り返って見惚れるほど、切れ長の目元が美しい人だった。まだ二十代のような容姿をしているが、自分が子供の頃から通っている生徒なので実際はお袋とそんなに変わらないはず。
「寂しくなりますね。末永くお幸せに」
「有難う御座います。───ところで、凌さん」
「はい?」
スッ、と日傘が差し出される。別に暑くないし、ご婦人たちのように日焼けを気にしているわけでもないのだが。
玉枝はにこりと微笑し、自身の口元にほっそりとした人差し指を当てた。
その仕草がものすごく色っぽくてドキリとする。
「それが探しているのは、紅ですよ」
一瞬、なんの話か分からなかった。
「べに……?」
「京紅です。紅を引いて、嫁ぐのです」
御免あそばせ、と玉枝は日傘を差し直して通り過ぎていく。
ふらふらと玄関に辿りつき、框に腰を下ろした。
なんだったのだろう。
「凌? 帰ったの?」
部屋に入りかけていたお袋が見止めて戻ってくる。
「どこへ行ったのかと心配したのよ。せめて着替えてから出かけなさいな」
「着替え?」
見ると寝間着のままだった。ついでに裸足だ。
朝起きた記憶がない。気づいたら家の前の道に立っていたのだ。
たしか、夢の中で空に飛ばされて───
「瀞舟───…親父は?」
「お父さんなら少し前に出かけましたよ」
「どこに?」
「帰りに鈴屋さんの羊羹を買ってくるとおっしゃっていたけれど、行き先は伺ってないわ」
「俺もちょっと行ってくる」
着替えていきなさいと後ろ襟を掴まれ、着替えている間にお袋が握り飯をひとつ用意してくれた。今になって猛烈に腹が減っていると気づく。三口で食べ終え、鈴屋へ向かった。
親父が来るまでに羊羹を何棹食べただろうか。
さすがに店の人も呆れたようで、兄ちゃん病気になってもしらないよとお節介を焼かれる。
一刻半ほど過ぎた頃、雑踏に親父の姿が見えた。
「どうした、凌」
「ここに寄るってお袋から聞いたから待ってた。朝はごめんなさい」
「───訳ありのようだな。少し話そう」
店先の縁台に腰掛け、親父が羊羹を注文する。自分はいらないと断ると好奇の目を向けられたので、待っている間に病気になるほど食べたのだと説明した。
「玉枝さん結婚するんだって。明日の稽古が最後だって挨拶に来てたよ」
「ほう、めでたいな」
「あの人、長いよね。ずっと独身なの? 未亡人っぽい気もするけど」
理想が高すぎて今まで相手が見つからなかったのかな、と茶化すと、親父は羊羹をひとつ口に入れてゆっくりと味わう。ここの羊羹がお気に入りなのだ。
「玉枝さんは狐の妖しだ」
いきなり核心を突いてきた。さすがに回りくどかったか。
親父が玉枝の正体を知っているとは驚いた。自分は今日までぜんぜん気づかなかったのに。
「私も彼女から明かされるまで気づかなかった」
「いつ知ったの?」
「だいぶ昔だ。弟子入りして数ヶ月経った頃か、先生の花は先代と違うのですね、と言われてな。
父の花を見たことがあるのかと聞くと、弟子だったという。聞けば初代から弟子入りしていたそうだ」
なんと、斗上一族の歴史を知る重要人物じゃないか。
といっても家族付き合いはまったくないので、斗上の誰がいつどうしたなんて事情までは分からないだろう。祖父の生徒でもあったなら親父も一度くらい見ているはずだが、一代ごとに容姿と名を変えているらしい。
「玉枝さんがどうかしたか」
「あーうん、そのことで急いで来たの」
先刻のやりとりを話すと、親父は「やはり紅か」と意外な反応をした。
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