微睡の魚
四、
「近況はどうだ」
美味そうに食べながら問う沙霧のどんぶりは、すでに残り半分。それに比べて巴の小鉢の中身はほとんど減っていなかった。沙霧が贔屓にするだけあって美味いのだが、もともと食が細い理由も手伝って一度に食べ続けることができない。箸を休めては空を見上げたり沙霧の食べっぷりを眺めたり、そうしているうちに満腹感がやってきてしまう。
「普通です。何も、今までと変わらず」
一口啜ってから答えると、横目にちらりと見られた。
「えーと、昨日の遠征で冴希の刀がくたびれてしまって、だいぶ古い物だし新調することになったんです。今日はその用事で」
それがどうしたと言われそうなことしか思いつかない。
だが沙霧は、箸を止めて頷いた。
「あの刀、先三年ぐらいは持つだろうと思っていたが早かったな」
自分が担っている龍華隊の重みが隊士にまで圧し掛かっているのだろう。誰も口に出しては言わない。何が必要なのか、何も必要ないのか。一分の隙もなく『龍華隊の隊士』でいてくれる彼らをありがたいと思い、それに甘んじていた。沙霧や司と共に過ごしてきた彼らなら何の心配もいらないだろうと。
なのに、隊の疲労は意外な形で現れた。
「それだけ……負担が大きいってことなんですね」
「分かっているじゃないか」
表情を変えぬまま首を巡らせた沙霧が、どんぶりを背後へ差し出す。
「親父、お替り」
「あいよっ」
お連れの兄さんは、と訊く店主に「食が細いから一杯で十分だ」と代弁までしてくれた。まだ半分も食べていない。なんだか申し訳なくなり、少しだけ箸のスピードを上げた。
「無理に食わなくてもいいんだぞ」
「いや、美味いです。本当に」
「なら急いで食うな。これから用事があるのか?」
用事はもう済んだと告げると、沙霧は手を伸ばしてきて巴の箸と小鉢を引き離す。
「ゆっくり食え。食えなきゃ残せ。ただそれだけの事だ」
何を焦っていたのか自分でも分からなかった。
緊張しているのかもしれない。緊張するというのがどういう感覚かはよく知らないが。
二杯目のどんぶりを受け取った沙霧はすぐに手をつけず、こちらをじっと見て首を傾げる。その仕草は何となく猫に似ていて愛嬌があった。
「巴、何を悩んでいるんだ?」
仕草だけでなく人の心を見透かすようなところも、猫にそっくりだ。
「貴嶺さんは猫みたいですね」
「よく言われる。つれないとか何とか」
「でも、ちゃんと人を見ているんだなと思いました。今」
一瞬きょとんとした大きな目が、また猫のように細められる。沙霧はふいっと顔を逸らしてどんぶりに箸をつけ、最初と変わらない速度でするすると口へ運んでいった。
悩んでいる、か。
食べ終えた小鉢を脇に置き、さらさらと風に泳ぐ青柳を見つめた。
疑問ならたくさんある。隊士達はなぜ負担が掛かっていることを黙っていたのか、なぜ沙霧や司の話をするのか、自分が隊長として失格ならそう言えばいいのになぜ誰も不満を言ってくれないのか。適任じゃないのは巴自身が身に染みて分かっている。
司が鍛え上げた煙狼隊は、沙霧の天変地異な交代劇によって統制を失いかけた。その時、彼女は何食わぬ顔で隊士達の動揺を鎮め、龍華隊として新たな敷布を敷いた。
鮮やかな手並みだったと今でも思う。沙霧は当時十七歳。これを天才と呼ぶのだろうと。
悩んでいるわけじゃない。何を悩んだらいいのかが、分からないのだ。
隊士達は何が負担で、何を自分に求めているのか。
隊長としての采配は申し分ないと隆が言っていた。采配以外に足りていないのは何かと聞くと、「それは俺が口を出すことじゃないからね」と軽く笑って流された。つい数日前のことだ。
采配でなければ資質の問題か。
生まれ持った質は誰にも変えられない。それをどう生かせるかで天才と凡才が決まる。
自分は生かし方を知らない。
だから、ただ強くありたいと願ってきた。
生きる為に選んだ隠密衆で、誰の足も引っ張らないように。
「辞めたいなら辞めればいい」
柳の葉が静まる。
「隊長役が重荷なら辞めればいい。誰もお前を縛りつけてなんかいない」
射抜くような沙霧の目が一際深い緑色をしていた。
「お前は貪欲なんだ。だから他を見ようともしない。しかもそれが無意識下だからタチが悪い。自分さえよければいいなんて考えが許されるのは平隊士だけだ。平にいて私や司の代までを見てきたお前ならその違いくらい分かると思っていたが、とんだ見込み違いだったな」
辛辣な言葉だと感じるのは、自覚があるからだろうか。
でも。
「じゃあ、貴嶺さんはどうして龍華隊を放擲したんですか。自分さえよければいいとは考えず、周りを見ておきながら。隊士達がどれだけ……」
「放擲した? ふざけるな」
一瞬、殴られるかと思った。沙霧から殺気に近いものを感じる。
だが沙霧はどんぶりの汁を一気に飲み干し、またも店主を呼んで三杯目を頼んだ。
本当に何を考えているのか分からない。
「お前が今あいつらを放擲しているんだろう」
そこにいながら見放している───。
核心を突かれた気がした。そういう事になるのかと。
「いつ誰が欠けても戦力が不足しないように隊士のレベルを引き上げてきた。力だけじゃなく頭の方もな。考えてから動くのでは遅い。考えながら動け、動きながら考えろ。常にそう教えてきたつもりだし、私自身そうしてきた」
風が吹く。
「当時の私に唯一誤算があったとすれば、巴にはそれが通じてなかった事だな」
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