微睡の魚
三、
たしかに自分がぼうっとしているのが悪いのだろう。
だからといって、そう何度もあたり構わず人にぶつかっているわけじゃない。
「今のはそちらが飛び出してきたんでしょう」
「のらくら歩いてるてめぇが悪いんだろが」
凌とエルの件があって道の真ん中ではなく端を歩いていたら、脇道から飛び出してきた男に突き飛ばされた。片目のないヤクザ。こういう族に絡まれるから日中は出歩きたくない。
肩の骨が外れた、慰謝料を寄越せ、と怒鳴る男の肩越しに町人の不安そうな顔が覗く。
「脱臼なら治せますけど」
「誰がてめぇに頼んだよ、いいから金よこせ」
「じゃあ一緒に医者へ行きます。治療費はそこで払うってことで」
「ナメてんのかこの野郎!」
胸倉を掴まれ、壁に押し付けられた。木箱に並んでいた野菜や果物が派手に散らばる。男は熟れた茄子を踏み潰し、匕首を抜いて突き出した。隙だらけにもほどがある。
鞘から三寸ばかり刀を浮かせ、脇腹を狙ってきた匕首を刃身に滑らせるようにして受け止めた。そのまま刀を差し戻して匕首の刃先を鯉口に挟み、鍔で折る。衝撃で手が痺れたのだろう、目を見開いて固まった男の腕を掴んで圧し折り、ついでに肩の骨も外してやった。
男が絶叫と共に泡を吹いてよたよたと後退する。骨が折れたぐらいで大袈裟だ。これも慰謝料目当ての迫真の演技だろうか。
「ふ、ふざけやがってぇ……っ!」
「そうですね。医者を呼びますから安静に」
してて下さい、とまでは聞いてもらえなかった。ぶらりと垂れ下がった腕を抱えて走り去っていく男を見送り、はたと気づいて足元を見る。野菜が無残に転がっていた。
「すみませんでした。これ、全部買います。おいくらですか」
店の戸を盾に隠れていた店主が顔を出し、あたふたと無傷の野菜を片っ端から籠に詰めて差し出してくる。
「いや、地面に落ちてる方を」
「お侍様に泥のついた傷物なんてとんでもない!」
「侍じゃありません。ただの隠密衆です」
「隠密衆のお侍様! お代は結構ですから、どうぞ受け取って下さい」
発端は自分とヤクザの喧嘩であり、店主が絡まれていたところを助けたわけでもない。
それなのにこの展開は何だろう。
気が咎めて渋っていると、横からすっと伸びた白い手がその籠を受け取った。
「では友人の代わりに私がもらおう」
話は聞いていたと言わんばかりの顔で、土のついた大根を手にした沙霧が立っていた。
「お前はいちいち面倒な性格だな」
山盛りの野菜が入った籠を足元に置いて、沙霧は甘味処の縁台に腰を下ろす。日除けの簾がちょうどいい陰になっていた。本格的な夏はまだだというのに今日は少し蒸し暑い。
「親父、ところてん二つ。こいつの分は辛子を抜いて」
「あいよっ」
沙霧は何を頼むとも尋ねずに注文した。聞いたところで自分が「何でもいい」と答えることを知っている。辛子が苦手だということも。
「隊長、さっきは」
「隊長はお前だろう」
「あ……そうでした」
龍華隊の隊長になって丸一年。未だに自覚も実感もない証拠だった。隊士達から隊長と呼ばれるたびに違和感を覚え、居心地の悪ささえ感じる。公では仕方ないとして、普段は誰かが命名してくれた『巴御前』の方が耳馴染みがいい。
八百屋の前では助かったと伝えると、沙霧は組んだ脚に肘を乗せて頬杖をついた。
「ごろつきはともかく店の方はどう対処するかと思っていたら、案の定だな」
ヤクザに絡まれていた時から見ていた、と正直に言われる。
「なんで受け取らなかった?」
店には何の非もないのに、なぜお礼をされなくてはならなかったのだろう。明らかに非難とも呼べる声で訊かれ、答えあぐねて沈黙する。町人の往来を眺める沙霧の背中で、ひとつに束ねられている銀色の髪がさわりと風に靡いた。
「巴。江戸がどんな町か、知っているか」
「活気があるということなら」
「人情だよ。第三者だから関係ないとは思いもしないお節介な町だ」
お節介だと言うわりに、その視線は愛しみを含んでいた。心なしか彼女のまとう雰囲気は隠密衆にいた頃より悠々としている。ともに出かけたことがないだけで、昔から町ではこうだったのかもしれない。
それにしても不思議な人だと思った。
沙霧は何も見ていないようで、意外と俗世を見ている。
江戸がどんな町かなんて考えたこともない。町は町、人は人。そんな風にしか捉えられない自分の視野の狭さに気づかされた。
「やくざは江戸の名物で庶民の頭痛の種だ。お前はそいつに恥を掻かせた。だから、たまたまその場に居合わせた店主は感謝として野菜を分けてくれたんだろう。それなのにお前は人の厚意を踏みにじったわけだ」
「感謝されるようなことじゃ……」
「面倒な性格だと言ったのは、そこ」
碧玉の目にひたと見据えられる。
「お前は何でも理屈で図ろうとする。そのくせ自分には我が儘で貪欲だ」
“お前は貪欲だな”
かつて沙霧を愛していた人が言った言葉。それをまた、今度は沙霧自身に指摘された。
あの時は穏やかに、今は冷ややかに。
「俺は───」
「へい、ところてんお待ち!」
盆に載ったところてんの小鉢が二つ……否、一つ、巴の横に置かれる。
「貴嶺さんはいつものコレでね! たんと食ってって下さいよ!」
「ありがとう。いただきます」
沙霧に手渡されたのは、正真正銘の特大どんぶりだった。常連でいつもこの器に入れてくれるんだ、と説明しながらさっそく食べ始める。彼女の驚異的な食べっぷりは衛明館でも話題だったが、町でも知れ渡っているらしい。
先刻言いかけた言葉を嚥下して、巴はひとまず小鉢のところてんに箸をつけた。
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