微睡の魚
二、
遠征の報告後、皆のいる場で冴希の刀の件を頼んでみると、浄次は苦み走った顔ながらもすんなり承諾してくれた。巴は拍子抜けして冴希の顔を見る。これほど簡単に通るとは予想してなかったのだろう、彼女もぽかんとして浄次を見、それから拳を握って噛み付いた。どうして自分が頼んだ時はダメだったのかと。
巴はむしろ、隆と皓司がこちらを見て面白そうに含み笑いをしたのが気になった。
何か変なことを言っただろうか。
冴希が見込んだという刀匠は偶然にも隆の知人で、大の甘党らしい。菓子折りを持って訪れると、話も聞かずに包みを開けてぺろりと完食した。刀の寸法などは冴希から聞いているらしく、二週間後に取りに来いとだけ言われて追い出される。
とんとんと、問題は片付いた。
何事もなく過ぎていく日々。
いや、何事かは起こっている。
ただ巴には衛明館での日常も討伐も生活の一部であり、誰かが死んだり役が変わったりすることもまた、生活の一部だった。計算通りというと聞こえが悪いかもしれない。しかし事実、それらは計算通りなのだ。時が流れているなら人も変わる。昨日まで生きていた人間が今日死ぬことは云わば当然で、自分とて一刻後には死ぬかもしれない。それも当たり前のこと。
だからといって何を成し遂げようという気はなく、納得いかない物事を納得できるまで追求する。巴の生活基準はすべてそこにあった。
「おっと、危ないよお兄さん」
ぼうっと歩いていたら人にぶつかった。肩が触れたというより正面から体当たりしたらしい。
「あ、すみません。お怪我はないですか」
「ないですけどね。ぶつかるの分かってたし」
「そうですか、どうも失礼しました。では」
昼の町を歩くのは久しぶりで人混みに慣れない。雑踏を知らずに育ったのが原因だろうか。何年か前まで衛明館にいた上杉とはたまに町を散歩したが、早足でもないのにひょいひょいと人を避けて歩く彼の器用さに感心した。しまいには人にぶつかってばかりの自分の手を引いて歩いてくれたことも一度や二度ではなくて。
迷惑なんだろうな、と思った。
次第に一緒にでかけるのを断り続けると、ある日上杉は丸眼鏡の奥の半眼を細めて言った。「人類が滅びた世界で唯一人になっても、あんたなら何不自由なく生きていけますな。俺には到底無理だ」と。その意味は今でも分からない。
鍛冶屋の用ついでにぶらぶら歩いていたが、行く当てもないとはこの事で、人にぶつかる為に歩いているようなものかもしれない。衛明館へ戻ろうと来た道を振り返った。
道を塞ぐように、二人の男が立っている。
「ぶつかった相手の顔、見てたのに無視するなんて薄情だね。巴」
「幽霊みてえに歩いてるかと思えば、本当に正体ねえな」
名指しされて初めて、二人が見知った顔であることが分かった。
皓司の弟の凌と、沙霧の異母弟のエル。同い年で気が合うのか、よく一緒にいる。
「凌とエルだったのか。ごめん、気づかなくて」
「フツー気づくだろ。どんだけボケてんだ?」
「ね、だから言ったじゃん。巴は絶対ぶつかっても俺達に気づかないって」
二人で賭けをしていたらしく、先刻ぶつかったのは自分が前から歩いてくるのを知っててわざと立ち止まったらしい。ぶつかる前に気づくか、ぶつかってから知り合いだと気づくか、ぶつかっても気づかないまま通り過ぎるか。エルが「凌の勝ちだな」と無感動に言った。
「でもさ、俺はともかくエルなんてほら、どっからどー見ても金髪碧眼の異国人じゃん?エロいじゃん? なのに気づかないなんてさ、前方不注意とか近眼とかのレベルじゃないよね」
「ま、巴だしな。そんなもんだろ」
どんなものかは分からないが彼らに失礼だったのは確かで、少し気まずさを感じる。
だが二人は若さゆえか、ころりと話題を変えて巴の思考を断った。
「どっか行く途中?」
「いや、帰りだよ。鍛冶屋に用があって、その帰り」
ふーん、と鼻返事をした凌の隣で、エルが手に持っていたものを目の高さに掲げる。
「こっちは巣鴨の縁日帰り。一個やるよ」
「俺のもあげる。兄貴によろしくね。元気でやってんの?」
巴の返事も待たずに水色のヨーヨーと木彫りの招き猫を袖の中に入れてきた。エルの口から風船のようなものがぷうっと膨れてそのまま引っ込む。何だろう。巴の視線に気づいたエルは、にやっと笑っただけで種明かしはしてくれなかった。
「斗上さんなら元気だよ」
「そ。 んで?」
「……それ以外にないけど」
皓司の何を聞きたいのか、物足りなさそうに催促する凌に戸惑う。
わずかな沈黙の後、凌は大仰に首を振った。
「巴って冷たいな。弟が兄の近況を聞きたいって言ってんのに、元気だよ?それだけ?」
「本当に元気だし、これといって何もないし」
「何かあるだろ、何かは。たとえばさ……」
「凌、俺腹減った。メシ食いに行こうぜ」
唐突に割って入ったエルが凌の襟首を掴んで体ごと回す。縁日であれだけ食べたのにまだ食べんの、と呆れる友人を尻目にエルは巴の横を通り過ぎ、また口元で風船を膨らませた。
「 cheerio, Timmy 」
こら、とエルの頭を小突いて窘めた凌にはその意味が分かったらしい。
巴は軽く嘆息して、再び歩き出した。
◆
「ありゃ天然つーか」
「天の人だね」
数歩進んだどころでエルと凌はぽつりと言う。二人揃って振り返ると、巴はやはり正体不明の幽霊のように気配なく歩いていた。あれではごろつきに絡まれることも多そうだ。今まで無傷だったのが不思議なくらい、その足取りとあの性格には難がありすぎる。
「何が楽しくて生きてんだろうな」
「さあね。エルは?」
「俺は生きてる事が楽しい」
「まったく同感」
凌はそう言って、エルからもらったガムなるものを口に入れた。見た目は白い昆布。噛むとハッカの味がする粘着質の西洋菓子だ。向こうでは駄菓子と同じ扱いらしく、味がしなくなるまで噛んだあとは飲まずに捨てるというのも面白い。
さっきから唇の先でぷうっとガムを膨らませているエルを真似て、凌もやってみる。
少し平らにして歯の隙間から舌で押し出すように息を吐く、とそこまではいいのだが、息が強すぎたせいでガムが口から吹っ飛んでしまった。
「なんの芸?」
無表情で見ていたエルに突っ込まれる。
「うまくできねー。マウス・トゥ・マウスで教えて」
「窒息しても知らねえよ」
言うなり往来で口を重ねた男二人に、ある方面は驚き、ある方面は黄色い声で反応した。
当人達は知らん顔で歩きながら実演に勤しむ。
凌の口の中でエルのガムが最大限まで膨らみ、ぽん、と割れた。
「……ぷは! 口ん中に張り付いたっ」
「だから言っただろ」
その反応に満足したのか、エルが肩を揺らして笑う。
「ん、でもコツが分かった気がする」
もう一枚を口に入れた凌は唇を突き出してガムを膨らませた。「上手上手」と冷めた声で褒めるエルの横で、それはどんどん大きくなっていく。エルが不審な目を投げた瞬間、凌の顔ほどになった風船が派手な音を立てて割れた。
「何お前、死にてーの? 窒息死希望?」
エルは凌の顔面を覆った白い膜を覗き込んで呆れる。顎のところから剥がしてやると、凌は自分で驚いたのかしばらく沈黙していたが、すぐに「面白いなこれ」と無邪気に笑った。
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