微睡の魚


一、


「お前は見かけによらず貪欲だな」

 どういう意味だろうか。
 返事の代わりに見上げると、彼は大きな手をぽんと頭に乗せてきた。

 葉桜の陰を映す本条 司の顔を見たのは、それが最後だった。




 舞い上がる砂塵の中をゆっくりと歩く。
 横から近づいた影の白刃を弾き、一閃した。柄を返して背後の影に深く突き立てる。噴き出した赤い飛沫が砂塵にかき消され、巴は目を細めて周囲を見渡した。
 龍華隊の緑襟が見える。何を言わずとも精錬された彼らは効率よく動いていた。
 正直、助かる。あれこれと人に指示をするのは苦手だ。
 といっても聞かれれば口が勝手に動いている。自分の知らないところで脳が勝手に考えてくれるのだろう。染み付いた戦の習性は平隊士の頃も今も変わらない。

 敵の数が減り、鍔迫り合いの音も数えるほどになった。
 口の中でざらついていた砂を吐き捨てると、高揚で頬を染めた深慈郎が小走りに駆け寄ってくる。新兵でもないのに彼はいつもこんな調子だ。

「隊長、二班は片付きました。一班は大丈夫ですか?」
「うん、応援は必要ないな。冴希が大暴れしてる」

 耳を澄まさなくても冴希の大声はよく聞こえた。深慈郎も「確かに」と呟いて苦笑する。
 あの子は変わった。沙霧が辞めた直後こそ不安定な気はあったものの、気持ちの切替が早くて隊士を使うのが上手になってきた。我武者羅に刀を振ることもなくなり、落ち着きがある。
 今まで意識して人を観察した事がなかった。意識してみろと進言してくれたのは隆だ。せめて班長二人のことぐらいは「隊長」の目でしっかり見てごらん、と。
 まあ、観察しても感想はこれだけ。
 隆や皓司のようには到底人間を知るに及ばない。

「巴御前ーっ! 一班任務完了や!」

 視界の見通しが良くなり、冴希が刀を振り回して歩いてくる。

「お疲れ様。各班、怪我人はいるかな」
「うちはおらへん。あ、柳が手首折ったけどピンピンしとるで」

 木片を当てて鉢巻で巻いてやった、と言う冴希の後ろで柳がその腕を軽く上げた。板が大きすぎて不便そうだが、冴希なりの優しさは彼にちゃんと伝わっているようだ。

「二班は?」
「僕のところは擦り傷とか切り傷程度です」
「そうか。じゃあ帰ろう」

 せっかく草津へ来たのだから砂だらけの身を清めたいという隊士達の意見はもっともで、近場の温泉に立ち寄った。



 沙霧がいた頃は隣町の温泉で、という他愛のない話から始まり、古株は司がいた頃はだいたい直行直帰だったと語り合う。次から次へと遠征話が出ては泣いたり笑ったり。
 そこにいて巴はひとり、相槌を打ちながらも別のことを考えていた。

 なぜ人は過去を思い出すのだろうか。
 沙霧や司に嫉妬しているわけじゃない。単純に、なぜ彼らを思い出すのだろうと考える。

 沙霧が隊長だった時、隊士達は司の話を一切しなかった。
 複雑な背景があっての事だが、沙霧はきっと気にしなかっただろう。
 だが誰も司の名前すら口にしなかった。

 司が隊長だった時、隊士達はやはり前隊長の話をしなかった。
 誰も興味なかったのだ。司や浄正ら隠密衆が万能すぎたゆえに。

 ではなぜ、と再度思う。
 なぜ隊士達は今、彼らの話をするのだろうか。


「御前、御前。湯船で寝たら駄目ですよ」
「え?」

 隊士に肩を揺すられ、岩に頭をつけて寝ていた自分に気づく。

「そっとしときよ。巴御前やのうてもこの湯は眠たなるって」
「女湯から話しかけるな、冴希!」
「丸聞こえやねん。こっち誰もおらへんし、沙霧姉のでっかい胸が懐かしいわあ」

 何人かが耳を染めて黙った。そこへすかさず冴希の冷やかしが飛び、竹柵を挟んで湯かけ合戦になる。想像が行き過ぎたのか隅で沈没しかけていた深慈郎を祇城が引き上げ、岩にかぶせるように置いていた。

「せや。あんなあ巴御前、頼みがあんねやけど」

 柵の向こう側から唐突に話しかけられ、巴は顔を上げる。

「うちの刀、刃毀れがひどいねん。研いでも研いでも限界やねん」
「そうだろうね」
「そうだろうねっちゅーか、せやからな、新しい刀が欲しいんよ」

 許可を取らなくても好きに買い替えればいいじゃないか、と考え、いやそうじゃないと改める。つまり冴希の給料では足りないから経費で買ってくれという事か。
 平でも隊長でも刀が必要なら無料で支給される。ただし支給される刀が自分に合うかどうかはまた別で、こだわる人はこだわるものだ。現に平以外のほとんどは自前の刀を使っている。壊れればまた自分に合う刀を余所で作らせる。その場合は自腹だ。
 冴希の大刀は実家の神社に奉られていた背負い刀で、普通の日本刀とは違う。
 同じものを作るとなれば結構な値段だろう。

「鍛冶屋のおっちゃんにマケて言うても頑固で融通利かへんねん。ジョージに頼んでもそない無駄金あらへん、日本刀にせえの一点張りや」
「困ったな。御頭が駄目だって言うなら経費じゃ落とせないよ」
「ちゃうちゃう、うちが言うからあかんのや。巴御前が頼んでくれたらあいつ首タテに振るよってな、絶対や」

 さてそんなに上手く行くだろうか。
 江戸に着いたら頼んでみるが期待しないでくれと答えると、隊士達が笑った。

「もし駄目だったら全員でカンパしてやりましょう。氷鷺隊と虎卍隊も巻き込んで」
「氷鷺隊は二つ返事だろうけど虎卍隊はどうだかなぁ。素寒貧が多そうだぞ」

 巴は湯船の湯を掬い取って顔を拭う。
 彼らの上に立つ者として、自分はまだ理解力が足りない事を痛覚した。






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