()斬雨(きりさめ)の地に


八、

 山城遠征での出来事を火鷹隊と煙狼隊が知ると、衛明館にどっと笑いが溢れた。二階の自室にいても、大広間で何の話がされているのか厭というほど聞こえてくる。お喋り好きの綺堂と安西が、ある事ない事を吹き込んでいるのだろう。

 布団の中で寝返りを打つと、乾いた咳が出る。遠征終了から降り出した雨のおかげで、伊勢の宿に着いた頃には肺炎になっていた。同じく雨風に当たっていた隊士たちは皆ケロリとしていて、雨程度で肺炎を起こしていたらどこにも出られやしないと笑われた。
 それだけ体の成長が遅れている証拠。浄正や綺堂たちに言わせれば、心の成長もまったく足りないらしい。余計なお世話だと思うほどには、彼らは如才なく人間が出来すぎていた。

「大丈夫か」

 くぐもった声がする。布団を頭まで被っていたせいだった。
 顔を出して振り返ると、盆を置いて座った浄正が背中を擦ってくる。

「大丈夫だったらこんな無様に寝ておりません」
「おっ、無様だって自覚はあるんだ」

 心底面白そうに笑われながら身を起こし、手渡された頓服薬を口に放り込んだ。湯呑を盆に返そうとした時、そこに載っている切花に目がいく。

「ニゲラ、ですか」
「ああ、綺堂がお前にって。今自分たちが見舞いに行くと、皓司がキレて肺破って吐血しちゃいそうだとか言って寂しがってたぞ」

 細く切り込まれた葉の中央に、幾重にも重ねられた濃淡二色の青花が咲いていた。最近になって渡来した花で、まだそれほど世間には広まっていない。花自体は見たことも触れたこともあったが、よりにもよって何故この花なのかが気になった。

「どうしてこの花を私に下さったんですか、綺堂さんは」

 まるで当てつけのような、悪戯のような。

「お前が入隊した日に、黒種草みたいな小僧だって言ってた」
「外見が似ていると言ったのですか」
「詳しくは知らんが、そうじゃないのか? なんだ、嫌いか」
「嫌いではありませんが、受け取る心境にないのでお返し下さい」

 盆ごと浄正の方へ押しやり、布団に潜る。華道の家だと知っているから寄越されたのか、単に似合いそうな花だと思われて寄越されたのか。綺堂の事なら、間違いなく前者だ。
 浄正はまだそこにいる気らしく、扇子を扇いでいるような気配がした。
 いくらもしないうちに薬が効いてきて、うとうとし始める。

「皓司。忘れるなよ」

 浄正の声が夢の中に割り込んできた。
 ニゲラの咲き乱れた広い野原に、その声だけが響き渡る。

「お前は一度死んだも同然だ。腹を斬った時の覚悟は、終生つきまとうぞ」

 隠密衆にいる限り。
 隊長である限り。
 そして、浄正を選んだ限り。

「もとより覚悟の上です」

 花はどこに咲いても、やがて等しく散るものだ。
 夢の中の自分が、夢の中のニゲラを切り刎ねていく。その度に黒い種が飛んだ。

 ニゲラの花言葉は───『当惑』

 上等だ。
 夢の中の自分が嗤った気がした。






 秋風たなびく、夕月夜。
 月光の下に光る白刃の切っ先が、時期外れの蛍のように残光を引いて飛び交う。川岸から雑木林まで無数の残骸が転がり、黒い飛沫がその上を幾度も塗り重ねた。
 カサカサと藪の中を走る足音が聞こえる。目を凝らすと、前方に楕円形の影が見えた。
 複数の足音はしばらくしてぴたりと止まり、息を潜めて周囲を窺う。
 その様子を上から眺めていた安西は、月光と刀の位置に細心を払いながら、後方の藪にも動く気配があるのを確認した。前後の影の距離が少し遠すぎる。前方は複数、後方は一人。後方の影が指示者であるか、はぐれ者であるか。それによってこちらの出方も変わる。

 前方の影からすっと手が挙がった。後方の影が立ち上がり、小走りに駆け出す。
 こちらの真下へ。
 振り返って目視せずとも、気配と足音で距離が分かった。
 刀を垂直に持ち替え、切っ先を真下に向ける。
 足音が目標距離に入った刹那、安西の身が音もなく木から落下した。
 頭蓋を貫く感触が掌から脳へ伝達される前に着地し、前方の群れへ走る。そこからは速さが勝負で、「あ」の字に口を開いた影に斬り込んでいった。手応えのある反撃がふたつ、みっつくらいはあったかもしれない。だがその程度で、苦戦の二文字を知らない安西には物の数ではなかった。

 綺堂の持ち場である河原から逃げ込んできた敵は、これで終りだろう。
 顔に飛んだ返り血を拭い、分散している自班の隊士を揃えようと踵を返した。

「……っ!」

 反転して一歩進んだ右足が、罠にかかったように止まる。
 気配もなく行く手に立っている男───少年の白い面が、闇に浮かんだ。

「斗上さんか……驚かせんで下さいよ」
「私の気配も分からなかったのですか」

 彼の気配程度も(・・・)ではなく、彼の気配だけ(・・)が分からなかった。
 この雑木林で自班の隊士がどのように動いているかは、今も手に取るように分かる。しかし目の前の、一瞬前は自分の背後にいた皓司の気配だけは、微塵も伝わってこなかった。
 日常でも気配のなさには感心すること頻りだが、こんな闇の中で自分の部下相手にまで消さなくてもいいだろうと内心呆れる。自分の平常心が今ひとつ自信のないものだったら、敵と勘違いして斬りかかるところだった。

「うちはもう用無しですね。あとは河原で始末が付く按配でしょう?」
「ええ、その様です」

 皓司にとって二度目の遠征となる今日。
 前回もその落ち着きぶりは大したものだと思ったが、今回は寒気がするほど冷静だ。
 三ヶ月前に比べて、皓司は少しずつではあるが変化している。自分から話しかけることはほとんどなかったが、声をかけられれば隊士とよく喋り、昼の外食に誘えば一言返事で頷く。
 意に反して無理やり馴染もうとしているわけではない、というのが一番よく分かるのは、その能面の如き無表情に時折浮かべる微笑だった。はにかむでもなく、戸惑った風でもない。
 喩えるなら芸妓が踊りの際にちらりと見せるような、含んだ微笑をする。
 これは食わせ者になるかもな、と綺堂が冗談交じりに案じたのも分かる気がした。

「じゃ、まとめて一班と合流します」

 刀を収めて隊士を揃えようと切り替えた思考が、間を置いて断たれる。
 腰元の鯉口に、皓司の切っ先が挟み込まれていた。
 残党がいるかもしれず、刀を収めるのはまだ早い、という意味か。
 馬鹿にされている気分がしなくもない。

「荒っぽいですね、隊長。口で言えば分かりますよ」
「では申し上げます。この場にて斬り捨て御免、と」

 何の話かと眉を顰める暇もなく、皓司の左手にあるもう一振りの刀が、風を薙いだ。








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