彼は斬雨の地に
七、
真紅の飛沫が、雨水の中に飛び散る。
皓司の脇腹から溢れ出した血が腿へ流れ、濡れた服にじわりと染みを広げた。
ぱたぱたと足元に垂れ落ちる血は、雨の勢いを借りて砂利の隙間を川のように流れていく。
カラン、と短刀が落ちた。
「まったく、大した根性ですよ。斗上さん」
右手にいる綺堂の脇から、苦笑と溜息の混じった声が聞こえた。
何が起こったのか分からず、皓司は弾き飛んだ短刀を見て、ゆっくりと顔を上げる。
「……安西さん」
驚きはしなかった。否、驚いているのだろうかと自分に問う。
分からない。分からない事が多すぎる。
「まさか切腹沙汰になるとは思わなかった。少々遅かったですね」
「何が、遅かったのですか」
「その腹ですよ、腹」
指を差されて、自分の腹を見下ろした。左の脇腹が横一線にぱっくりと切れ、足元からは細い血の川が方々へ広がっている。その膝脇に、自分のものではない短刀が転がっていた。
膝を付いたままそれを手に取り、皓司は茫然とする。
痛みよりももっと痛烈な何かが、腹の底に溜まっていくのが分かった。
「ほら、血止めないと死んじまいますよ。あんたが死んだら俺が後悔する」
そばに屈んだ安西が腹に手拭いを押し当て、後ろでけらけら笑っている綺堂に手拭いを寄越せと怒鳴る。それを胴に巻きつけてきつく結び、自分の陣羽織を脱いで肩に掛けてきた。
「抱っこがいいですか、おんぶがいいですか。それとも姫抱っこ?」
「……何がですか」
「こんな血垂らして一人で馬乗れないでしょうが。俺の馬に乗っけてやりますから、どの配置がいいかと……ああ、配置といえば今度は俺に決めさせてもらいましょうかね」
悪戯めかした微笑を浮かべる安西は、昨日までの敵意剥き出しのそれとは完全に人が違う。まだ状況が分からないでいる皓司に、浄正が我慢も限界といった顔で吹き出した。
「ほんと悪趣味だな。安西、綺堂。自慢じゃないが俺は演技が苦手なんだぞ」
「まったまた。御頭なんて一番おっかなかったですよ。なぁ?」
綺堂の問いに隊士たちが笑い出す。屍に囲まれた場所で、皓司以外の皆がすっきりした顔ではしゃぎ始めた。浄正の方を見上げると、その口元がにやりと歪められる。
「一杯食わされたな、皓司。分かるか?ハメられたんだよ、お前は」
安西の生還は元よりその態度の豹変ぶりに戸惑い、浄正の『演技』がどこからどこまでだったのか、それを言うなら綺堂の先ほどの消沈ぶりも演技であり、隊士の全員が演技をしていた事になる。
一体、いつから騙されていたのだろう。それは、どこまでが嘘だったのだろう。
初陣は成功だったのか失敗だったのか、自分の失態とは何なのか。
今しがたまで人を斬っていた事すら、嘘のような夢のような感覚に襲われる。
「やばいわ安西ちゃん。花屋さんが失神しかけてる」
「え……おい、しっかりして下さいよ。隊長の神経は注連縄でしょうが」
「むしろ神経ないんじゃね? いわゆる無神経ってやつで」
「思いっきり納得だな」
黙っていれば勝手な事を言う二人を、皓司はぼんやりと見上げた。
「どういう事なのか、簡潔に説明して頂けませんか」
すると二人は顔を見合わせ、歯を剥き出して笑い合う。綺堂は最初から人当たりがよかったが、安西の豹変には本当に困惑している自分を知った。そんな風に自分の前で自然に笑う顔など見た事がなかったのだ。何かにつけて突っかかるか無視を決め込むかで、粗利の合わない人間とは安西のような男だと思っていた。
「なぁに、簡単な事ですよ。花屋さんがあんまりにも年不相応で可愛くないんで、安西ちゃんがちょっと遊んでやろうって言い出しましてな」
「遊びを知らん子供はいい大人になれませんからね」
悪びれもない告白大会の始まりに、皓司は眩暈を感じる。
「どうせ罠を仕掛けるなら、規模はでかい方が面白い。それで今回の遠征を使って一泡吹かせてやろうかと思いつきましてね。ああ、うちの隊だけですよ。他の隊は関係なし」
「俺は根っからの善人ヅラなもんだから、渋い顔すると人相の悪い安西ちゃんに悪役になってもらいましてな。段取りはこうです」
入隊以来にこりとも笑わず可愛げのない小僧で、顔と腕は良くとも普段からこんな態度ではあまりにも堅苦しく、このままでは紅蓮隊の覇気が落ちると安西は考えた。そこで自隊の隊士に事情を説明し、遠征直前に隊長と問題を起こすが気にするなと釘を刺しておいて、綺堂と二人で行動を開始した。
綺堂の怪我があれば突破口を開くのは必ず二班の役目になると読んでいたので、それを問題のタネにする為に、日常の鍛錬では一班も二班も特技だけが目立つようにやれ、というのが第一弾。特攻向きは綺堂の一班、すなわち安西の二班は一班の役目に不向きであると見せかける。持ち場を変えるのは自分たちにとって困るという風を装った。
第二弾は、皓司の出方によって決めるところだった。
もしも第一弾の罠に引っかからず、通常通り一班が突撃の役割に当てられたら、それによって綺堂を死んだ事にして責める。第一弾の罠に掛かれば安西の目論見通りとなり、突撃に慣れていない二班が不平を言う。慣れない事をすれば失敗するぞと脅しかけ、皓司の出方を待った。そこで皓司が「突撃はやはり一班に」と言えば綺堂を亡き者にし、「不向きでもやれ」と言えば安西が死ぬ台本となる。
第三弾は浄正を巻き込まなければならなかったが、皓司とは古い付き合いだと聞いていたので、前もって知らせるとボロが出るかもしれないと安西は懸念した。
浄正には途中の戦況報告で知らせればいいと結論し、飛車に「安西は死んだという事にして、皓司がどう出るか御頭に一役買ってもらえ」と頼んだ。浄正が安西の死に疑問を抱いたのは、そこに理由がある。何をやらせても不得手のない安西が、たかが砲兵に囲まれたくらいで死ぬだろうか、と。人間である限り、思いもよらない場面で呆気なく死ぬ事があるとは分かっていたが、浄正には信じられなかった。
すると飛車が件の『演技』を安西から伝えるよう頼まれたと言うので、ここ数日の安西の不機嫌はそういう事かと納得した。綺堂が鳶を飛ばすのにわざと時間をかけたのも、戦場で苦戦しているというのも、全部計算された悪戯だ。
とどめは浄正に任せる方向で、皓司が泣くなり笑うなり態度を変えた時にひょっこり死人が出ていって悪戯だったと言えば、少しは性格が年相応になるのではないか。
安西はそう算段していたのだが、隊士の後方に紛れて浄正の『演技』を見ているうちに、正直冷汗が出たという。切腹沙汰になるとは計算外もいいところで、皓司がもし嫌だと言えば、浄正が自ら切り捨ててしまいそうな空気を感じた。そして皓司は躊躇いもなく切腹を選び、浄正は止める気配もなく。慌てて自分の短刀を投げ、皓司が自腹に突き立てようとしていた短刀を弾き飛ばしたのだ。
自分の腕には自信があったが、皓司の刃先が腹へ刺さる方が少し早く、深手には至らなかったものの脇腹を抉る結果になった。
「至極単純で狡猾な罠に、私は嵌ったわけですね」
痛みよりも痛烈な何かが腹の底に溜まったと感じたのは、屈辱の二文字。
それは初めて覚えるものではなく、二度と味わいたくない懐かしい響きだった。
「しかし、まだ疑問はいくつか残っているのですが」
「何でも白状しますよ」
「安西さんが突撃の役目に不平を唱えた本当の理由は何ですか? 突破口を開いた時のあの手際の良さは、不慣れどころか容易そうに見えました。あれほどの腕を持っているのに頑として持ち場を拒んだのは、私を騙すだけの悪戯にしては徹底しすぎたように思えます。そこまで手の込んだ事をする必要があったでしょうか」
綺堂と安西が揃って目を瞬き、参ったなと口々に呟いて笑う。
「悪戯だって説明したばかりなのに、本当の理由を白状しろとはねえ」
「安西ちゃんも意外に読まれてんのかもなぁ」
綺堂の頭を小突いた安西は、降参だと手を挙げて白状した。
「要するに、綺堂をバカにされたんで頭に来たんですよ」
「馬鹿になどしておりませんが」
「こいつとは長い付き合いなんで言わせて貰いますがね、綺堂の腕は逆手でも利き手に劣らんですよ。それを怪我人ってだけで移動させられちゃあ、馬鹿にしてるのと同じじゃないですか。それとも、斗上さんは慈悲だけで綺堂を安全圏に放り込んだんですか?」
意地悪く問われ、皓司は正直に首を振る。
「慈悲ではありません。その方が動きやすいと思いましたので」
「やっぱりねえ。俺が叩き直してやりたいのは、そこですよ」
慈悲深くなれというわけじゃない、と安西は最初に言った。
皓司の、人を知ろうとしない性格が気に入らなかったのだという。
「目利きは確かですが、あんたは隊士の人間性を知ろうとしなかったでしょう。腕さえよければあとはどうでもって感じが、俺には鼻持ちならなかったわけです。さっきの御頭の言葉じゃありませんが、駒を動かすにはその性質を知らねば将棋はできませんよ。将棋のマス目が見えていようが駒の動かし方を知っていようが、どの駒がどこにあってどこへ動けば王将が取れるのか、それには全ての駒の性質と特徴を知る事が、大事じゃないんですかね」
無理に馴れ合えとは言わない。
他人を知らなければ、他人を使う事など到底できない。それだけだ。
独裁者でも結構、能無しでも結構。だが、どうせ自分達の隊長になるのなら器の大きな人間になれと言って、安西はひょいと皓司の身を抱え上げて馬上に乗せた。
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