彼は斬雨の地に
五、
深い山間を、紅旗の一行がゆっくりと進んで止まる。
先頭は馬の手綱を握った浄正。続いて皓司と安西の騎馬が連なり、徒歩の隊士の姿があった。時刻は明け六つ。眩しいほどの陽射しが山の陰に緩和され、穏やかな風に揺れる葉の隙間からは時折、光の矢が差し込んでいた。
「堂々と白兵戦ができるのはそう無い。好天で何よりだな」
まるで行楽の為に遠出してきたような態度で、浄正は軽く背後を振り返る。
「面白いだろう。隠密といったって、いつもコソコソしているわけじゃないんだぞ」
「別段面白くはありませんが、こうものんびりした足取りだと時間の無駄という気がしないでもないですね」
「急がば回れだ。逃げない敵と分かっているからこそ、だがな」
謀反者が立ち上がったのは山城(京都南部)。近江、伊賀、大和、河内、摂津、丹波と六方諸国に囲まれた土地は比較的小さく、丹波に比べれば田舎も田舎。謀反者の実態は公家の息がかかった人間たちで、反幕の理由は領土問題だった。六方諸国のいずれかを山城に併合して広げたいとの意見に、当然ながら幕府は「否」。六方も併合を望まずとあっては諦めるか強奪するかの二択となる。そして、山城は後者を選んだ。
幕府が知らん顔をすれば山城は六方一挙によって潰されることになるが、京都御所の手前そうも行かず、六方も争いを好まない。しかし謀反者は頑として諦めない。そうなれば謀反を鎮めるより手はなかった。
土地は小さいながらも敵数は多く、なかなかの精鋭が揃っている。しかし浄正は、今回の出兵は紅蓮隊のみと断言した。火鷹隊と煙狼隊は半数を衛明館に残し、残る半数は六方への飛び火を懸念してそれぞれに潜伏させている。山城討伐を行うのは、実質紅蓮隊だけだ。
段取りは全て皓司に任せてみた。
彼がどのように自分の隊を指揮し、どのような結果になるのか見てみたい。
隠密衆が潰れるような状況に陥ると分かれば浄正が動くのは当然だが、まずはやってみなければ分からないのだ。皓司にとっても、浄正にとっても。皓司は倖いそれを弁えていた。仮に浄正が段取りしてこのように動けと言っても、自分の意見を述べてきただろう。
頭はいい。皓司を褒めよと言われれば、まずそこだ。
教えればすぐに理解し、吸収する。叱ればすぐに理由を考え、納得する。問えばいくらも待たずに、迷いの無い答えが返ってくる。
だが、そういった頭の良さだけでは、人間必ずしも成功するとは限らない。
彼は恐らく、そこで失敗するだろうと浄正は睨んでいた。
「安西。どうだ、相方の役目を担った気分は?」
敵の正面から突っ込んで蹴散らす役を与えられている安西は、昨日以来むっつりと黙り込んで不機嫌だった。侮蔑を含んだ目を隠そうともせず、ちらりと斜め前の白い横顔を見遣り、その先の浄正に返事をする。
「胸クソ悪い気分で最高ですよ」
「らしくないな。慣れない事はしたくないのか」
「ええ、したくありませんね。俺には俺のやり方ってもんがある」
普段の安西と様子が違うのは皓司の影響だろうか。浄正は笑いながらも、内心で首を傾げた。先に行った綺堂はいつもの調子だったが、元々綺堂という男は滅多に不平を言わない。かといって人の指図でしか動かない人間ではなく、ようするに自分の器用さに自信があるのだろう。できなかった時はできなかったと認める潔さもある。
それに対して安西は、浄正も時々持て余すほどの大した自信家だ。完璧主義ではないが、自分に忠実で損得の計算が速い。利用できるものは赤ん坊でも使う。といって冷酷なわけでもないところが、損得計算の正確さだろう。利用したなと復讐されれば損になる。使うからには双方に納得のいく利益がなければならない。安西はそういう器用さが群を抜いていた。
「綺堂からの合図が遅いですねえ。斗上隊長」
安西が投げやりに問うと、皓司は馬上で空を見上げる。
「さて。鳶に逃げられたのかもしれませんね」
「俺だったらとっくに合図送ってる時間ですよ。そんな事で足を引っ張られてちゃ、一気に突破せにゃならんこっちの士気が落ちるだけだ」
まだ持ち場の事に拘っているのか、安西は苛立たしげに溜息を吐いた。
合図は、安西の飼い慣らしている鳶をこちらの頭上で三回ほど旋回させるという手筈になっている。本来なら安西がその鳶をこちらに飛ばすのだが、猛禽類が苦手だと言っていた綺堂には上手く扱えないのかもしれない。昨日の練習では、鳶を飛ばすどころか突付かれて逃げ回っていた。それなら隊士の誰かにやらせれば済む事だと、皓司は自分も待ちくたびれている事に気付いて軽く息を吐く。
その時、ピィーッという甲高い笛のような音が、頭上に響き渡った。
山間に反響した鳶の啼き声に、浄正と皓司が同時に空を見上げる。
一回転、二回転、三回転───
「行くぞ、野郎ども!」
その声が上がった時には、安西が馬の腹を蹴って浄正の脇を通り過ぎていた。
敵陣はすぐ目前にあり、安西の馬が山間から一番に飛び出ていく。続く隊士と共に中央へ体当たりし、陣の真ん中を快刀乱麻の勢いで左右に割っていった。隠密が来る事を知っていたとはいえ、そのあまりの鮮やかさに、敵勢が一寸出遅れる。
やがて咆哮が上がり、馬上で刀を振るっていた安西の姿が敵陣の中に消えた。
「どうした、斗上。大将はまだ行かんのか」
浄正の声に、皓司は瞬きをして手綱を握り直す。
「……いえ」
「戦場を目の当たりにして怖気づいたか」
「そうではありませんが……何か腑に落ちないような気がしまして」
「ふうん? で、それが何だ?」
腑に落ちない事とは何だ、と聞いているわけではない。その言葉の意味を即座に理解した皓司は、一瞬だけ浄正の顔を見て馬の腹を蹴った。
手綱から解放された馬が、皓司の脚による指示だけで疾走する。
光の尾を引いて馬上で閃く白銀は、二刀。
ややもしないうちに、葦毛の馬が単独で戦場の外に出てきた。騎乗者の姿はなく、しかしいつでも中に入る気でいるのか、外郭を走り回っている。安西の黒馬もそこにいた。
陣の中央を割られ、分散した敵勢がぼろぼろと周囲に広がっていく。
中央をやられたのなら外から囲んでしまえと、敵の陣形が変わり出す。
その更に外側を包囲して伏せていた綺堂の一班が、計ったように躍り出てきた。
火の矢が飛び交い、銃声が聞こえ、絶叫、咆哮、笑い声と、様々な人間の欲望と本能の形が醜悪なまでに滲み出る様を、浄正は残忍な表情すら浮かべて眺める。
人とは醜いものだ。理性を失い、ものの分別がつかなくなると、尚更に醜い。
これで山城の一公家は主謀者となり、御家断絶も確実だろう。大人しくしていればいいものを、欲を張るからこうなる。浄正の知った事ではないが、日々年間こういった醜悪なものを相手にしていると、時々虚しさが腹の底で渦巻いた。三十四の我が身はどこまで畜生道に落ちれば満足するのだろう、と。
皓司が生まれた日の白昼、自分は大量の犠牲を出した。
それを彼の父親は、人間の生死を一日で見た縁起者だと言った。人の死を見、人の誕生を見、お前は血沼の中で生きているのだと笑われた。縁起がいいので名づけ親になれと言われた時はさすがに面食らったが、自分がその名に願った事を、彼は知っているだろうか。
どんな赤にも穢されぬ白にと願った皓司は今、穢れなき真紅の旗の下。
「戦況報告でございます」
戦闘時にそれを調べて回る“飛車”が一人、馬の足元に跪いた。前方では至るところから煙が上がり、ここからは状況が見えなくなっている。
「二班長の安西が砲兵およそ三十に囲まれ、戦死。班の動向に問題はございません」
「一班は?」
「綺堂個人は苦戦を強いられているようですが、班に問題はございません」
「残数比率はどんなもんだ」
「敵勢およそ二割、紅蓮隊は九割がた生存を確認しております」
あの安西が死に、隊士は九割がた生きている───
浄正はふと、腑に落ちない気がすると言った皓司を思い出した。彼がそう感じたのはまだ白兵戦が始まったばかりの頃で、今は終盤に差し掛かっている。自分と彼の答えが共通するはずはないが、こうも不自然を感じるのはそうそうある事ではなかった。
(何だ……?)
奇妙な違和感。皓司が原因なのか、それとも他に原因があるのか。これまでの討伐と違う点は、皓司が加わっている事、一班と二班の持ち場が変わっている事、綺堂の利き腕が使えない事、安西の様子がおかしかった事。そのくらいだ。このうちのどれかが原因であり、もしくは総合的な原因とも考えられる。
「斗上の動きはどうだ」
「は、見事なものです」
「それだけか?」
「それ以上の言葉はございません」
では皓司が直接の原因とは考えられない。他の報告をいくつか耳に入れると、鞍の上の尻がむず痒くなってきた浄正は、馬の腹を蹴って自ら戦場へ出た。
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