彼は斬雨の地に
「御頭。お手隙でしたら付き合って頂きたい所があるんですが」 誰も使っていない我躯斬龍を眺めていると、背後からふと声をかけられる。 気配はほんの僅かしか感じられなかった。 「珍しいな。司が俺に用とは」 昨年に入隊し、三日と経たない間に初陣を終えた本条 司は実に頭の切れる男で、大袈裟に言うなら十年前から在籍しているような落ち着きぶりを備えている。 これで弱冠十七だというのだから、彼もまた末恐ろしい小僧だ。 「ヒマすぎて退屈していた所だ。吉原だろうと辰巳だろうと付き合うぞ」 「そういう場所では……」 困惑気味に押し黙る司を促し、南へ上がり出した太陽の下、城下町へ出た。 ここだと示された店は、裏路地に入った先の小さな料亭宿だった。 暖簾も潜らずにぺこりと頭を下げて去ろうとした司の襟を掴み、呆気に取られながら用事は何なのだと尋ねると、奥の座敷へ行けば分かると言われた。 司の背が雑踏に紛れていくのを見送ってから、ひとまず暖簾を潜る。正面の卓を片していた女が顔を上げ、手にしていた器を素早く戻して体を折り曲げた。 「これはこれは、葛西様。いらっしゃいませ」 見知っている女でもなければ、特に贔屓にしている店でもない。隠密衆の御頭として顔を知られているだけだ。下の者に言われて来たと告げると、女は得心がいったように微笑する。 「御座敷の方は先程お二階へ上がられましたので、ご案内致します」 「料亭『川蝉』はいつからそんな商売を始めたのかな」 「ご冗談を。そうであれば隠密の方を御通しするわけには参りませんわ」 ころころと笑う女の後に続いて二階に上がり、角の部屋へ案内された。 「お待ちになられているのは、若い殿方でございますよ」 そういう事かと、ようやく悟る。 周りを見ている者は見ているし、気づく者は気づいている。今頃は城下町をぶらぶらと歩いているだろう司に感謝して、唐紙を開けた。 てっきり座しているかと思った相手は、意外にも畳に寝転がっていた。 座布団を半折りにし、片腕で頭の下のそれを抱くように眠っている。 さてはこんな小僧でもさすがに参ったのだろうかと一抹の不安が過ぎり、音を立てずに脇へ歩み寄った。大小の刀を抜いてそろりと腰を下ろし、寝顔を覗き込む。 閉ざされた瞼が開く気配はなかった。軽い寝息を立て、邪魔する者のいない部屋で束の間の休息を取っている。目を開けていなければ、その顔は年相応に幼いものだった。 浄正は窓辺に寄りかかって茶を啜り、初夏の日差しが十分に届く室内を一望する。 規律と秩序の裏にも無法の喧騒が入り混じった衛明館から逃れ、こんな隠れ家で長閑な午睡にまどろむのもいいだろう。 静かに上下する肩はまだ細い。だがそこには、まどろむ本体と同様に眠っている力がある。 皓司に稽古をつけてやった事は一度もなかった。彼の前で刀を振るい、彼の振るう刀を見てきたが、お互いの刃を交えた事はない。 湯呑を置き、枕元に放り出されている刀へ腕を伸ばす。 手繰り寄せようとした手の甲を、すっと伸びてきた細長い指がつと押し止めた。 「人の刀に触れるな───とは、浄正様から教わった事と記憶していますが」 見れば完全に覚醒した眼差しが、上目遣いにこちらを向いていた。 「狸寝入りには見えなかったぞ」 「今の今までは寝ていましたよ」 刀に手を伸ばした時の気が散漫したせいだと言いたいらしい。眠りに堕ちても周囲の気配を伺っていた皓司は、ただ闇雲にここまで成長したわけではないようだった。 長物を引き寄せ、横たえていた身を起こす。 「本条さんに誘われて茶を飲みに来たのですが、見事に嵌められましたね」 「俺も嵌められたよ。小僧のくせに、やってくれる」 所用があるから一寸待っていろと言われ、その間に眠気を覚えて二階へ上がったのだと皓司は笑った。口元を僅かばかり横に引いただけの、密やかな笑み。年々父親に似てくる。 「私からお話しする事は特にございませんけれども」 唐突に江戸へやってきて隠密衆に入隊するなど、本気で驚かされたというのに。 それが然も当然であるかのように涼しい顔をされては、斗上の家に押し返すわけにもいかなかった。華道宗家の跡取りが、とんだ不良息子だ。 「入隊するなんて、親父からも聞かされてなかったぞ」 口を尖らせると、皓司は「そうでしたか」などと澄まし顔で抜かしてくれる。 いつからか知らないが、彼がその意志を持っていたのだろうという事は、ここ一週間に見た腕前からも十分に読み取れた。本来なら稼ぎ口を探さねばならないような身ではなく、帯刀や殺生に関してはそれこそ無縁も無縁。仮に当分は他所で働きたいと思ったとしても、これほどの剣技を身に付けた理由には当てはまらない。 そして、今ひとつ解せない事もあった。 「誰に習った? お前の型は」 彼がまだ七つの頃。 それまでは華の稽古を日課にし、朝から晩まで両親に仕込まれていた子供が、ある夕暮れにぽつりと近所の葛西家へやってきて自分を呼んだ。 「真剣を見せて下さい。浄正様」 子供ながらに落ち着いた声で、彼は言う。「刀」ではなく「型」を見たいという意味であるのは、その目を見てすぐに解った。暇を取って実家に帰省したものの、実父に小突かれながら門前の枯葉を掃いていた浄正は手を止める。 「また物騒な話だな。鋏はもう飽きちゃったのか?」 「いいえ。花鋏は私にとっての刀も同然です」 真剣も知らないのによく言うわと、摘まんで追い出そうとした所で父が笑い出した。 「斗上の小僧がついに刀に興味を持ったぞ。見せてやれ、浄正」 「七つの子供にですか」 「阿呆。てめえなんざぁ四つの時から持たせてやったのに、未だその程度じゃねぇか」 生まれは大江戸の父にべらんめえ調で罵られ、竹箒で尻を叩かれた。 皓司は笑いもしなければ帰る素振りも見せず、黙って見上げてくる。縁側に実母の姿が見えると、抱えていた花の包みを持っていって差し出した。時々、手ぶらでは何だからと皓司の両親が持たせてくれるらしい。 母は若いながら一人しか子を産めず、その子供も早二十五を超えて所帯持ちの男になってしまえばつまらないのだろう。小さい子供が可愛くて仕方ないようだった。昨年に生まれた孫を寝かしつけてきた母は、嬉しそうに皓司の頭を撫でている。 箒の先に顎を乗せて眺めていると、三度父に尻を叩かれて庭に追い立てられた。 剣道すら習っていない皓司はたまたま花以外に興味を持っただけのこと。 己に合うかどうかはさておき、その年で花稽古ばかりは退屈したのだろう。 それともあの親父を見返してやりたいと思ってのことか。 ここは一つ楽しませてやろうと、浄正は刀の鍔を押し上げた。 |
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