彼は斬雨の地に
江戸城の敷地内に設けられている隠密衆の本陣、有体に言えば詰所である衛明館の大広間で、新入隊士との顔合わせの酒宴が終わる。入隊者を各部屋へ割り振って解散を告げると、控えていた侍女達が入れ替わり立ち代りに膳を下げに来た。ぞろぞろと自室へ引き上げる隊士の中、白い鉢巻を手に持て余した男が近づいてくる。 「今年はまた、すげえ坊やがお出でなすったもんですな。御頭」 白狐隊の一班長を預かる綺堂は、先刻の試合で自隊の隊長がその「坊や」に呆気なく敗れる様を、面白そうに眺めていた。今は亡き男の腕に惚れ込み、その片腕を担ってきた奴が。 狐に似せた形の刺青を左頬に施し、時折そこが痒くなるのか指でなぞる癖が直らない綺堂は、尻尾の辺りを親指で擦りながら、廊下に出て行く新入隊士の一人を目で追った。 「噂に聞けば、御頭の親戚だそうじゃないですか」 「親戚じゃない。近所の花屋の跡取りだ」 「ほほぉ、花屋さんのね」 手癖が止まり、首だけを廊下に出してもう一度「彼」を見る。 「……あの腕で、花屋?」 ずるりと廊下へ倒れそうになった綺堂の腕を掴み、引き起こしてやった。怪我をしている腕を掴んだせいで、わざとらしく絶叫する声が廊下に響く。 隊士達がこぞって振り返る中、「彼」だけは振り返らなかった。一寸足を止め───驚いたのか、他の何かを思っての事かは判らないが───また歩き出す。真っ直ぐに正された背筋は、未だ華奢ながらも見かけ通りの腕では、決して無い。 身体が出来上がるまでは相手の一刃を騙せるなと、ふと考える。 その利点を考え出し、すぐに愚かしい事だと気付いて自嘲した。 今日見た限りの彼の腕には、そんなつまらない真似も必要なさそうだ。 「名のある華道の家でな。あいつが家元を継げば十二代目になる」 「腕のわりに大人しい態度だとは思ってましたが、道理で」 首から吊るした片腕を弄りながら、綺堂は可笑しそうに喉を鳴らした。 「黒種草みたいな坊やだ」 「クロタネソウ?」 「花屋と知り合いのくせに無学ですな……。ニゲラっつう花の事ですよ」 幼い頃から「彼」は、父親の弟子達に様々な花でその容姿を譬えられてきた。 その多くは、しかし今の「彼」にはどれも不釣り合いだ。豪奢すぎるというか、在り来たりというか。ニゲラの名は聞いた事もなかったが、華道に使われる植物ではないのかもしれない。 「彼」を花のようだと思った事はないが、どうせ譬えるなら珍しいものの方が似合う。 「珍しい花なんだろうな」 「最近渡来した植物ですよ。これがまたヘンな花でしてね」 「……変な花か」 変わり者では、ある。そんな事を思いながら、綺堂の頬を横目に見た。 顎下から頬骨に向かって這い上がるように彫られた狐の影は、尻尾だけが黒く、身は白一色。『能ある鷹は爪を隠す』に倣い、地の肌色に近い黒の尻尾が目立たない理由は『狐は尻尾を隠して騙す』という所以らしい。その白狐隊も、今日で終わりだ。 「花屋の小僧をお前の上に就かせる。異存はなかろうな」 滅多な事では初回から隊長役に就く者などいないが、数年に一度こういう人物が現れる。 現役をあっさりと蹴落としてしまうほどの、新兵が。 しかしこの時点ではまだ逸材とは呼べなかった。 試験では腕が良かった者も、日に日に落ちぶれていく数はその逆より多い。その中で班長の上を指揮取る隊長役といえば、相当な軋轢が掛かるだろう。何より、「彼」は入隊試験に挑んできた者の内でも史上最年少だ。十五歳の小僧に一個隊を任せるとは何事かと、反感を喰らうのは目に見えている。 ───望むところだ。 浄正は長物の柄に肘を置き、それと判らない程度に口を歪めた。新人のうちからその役に就かせる事は、一つの賭けだ。初めから素質を備えている者、備えていない者、備わっているが自身で引き出せない者。これだけ個々様々な人間が集う組織、定型に収まっているばかりではいずれ古びて廃れゆく。 新風を吹かせ、型を破るのは経験者だけとは限らない。逆も然り。 熟練者たちが新たな型に、どれだけ素早く順応するか。 隊士達の相性を測る為の無謀と言ってもいい。 まずは、「斗上皓司」の技量を知るに打ってつけの椅子が出来た。 |
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