三十三.



 自分の髪の先から滴った雫が皓司の頬にぽたりと落ちては流れる。
 雪は止むことなく降り続け、しんと静まり返った朝の峠は霧に覆われていた。


「身を委ねてもらえるというのは嬉しいものですね」

 委ねたわけではなく強制的に乗せられたのだが、いつの間にか彼の足取りにうとうとしている今はそういうことになるのかもしれない。

「私は、一度も凌をおんぶしてやった事がありませんでしてね。凌も小さい頃から元気で、転んでもひとりで立ち上がってまた走っていってしまう子でした」

 自分が斗上の家に居候することになった時、皓司はすでに隠密衆にいた。
 当時の双子はまだ五,六歳。それ以前の兄弟の話か。

「ですから弟の面倒を見たという、兄としての充実感がないのですよ」

 まるで子守唄を聴かせるように訥々と語る。
 あの人とは違う、けれどよく似ている、静かで優しい声だった。

「肉体的にも精神的にも弟の方が強かったので劣等感を抱えていました。こんな自分でも弟に尊敬される兄になりたい、弟に頼ってもらえる兄になりたいと、そんな気持ちがありまして。その野望がおんぶです。可笑しいでしょう」

 おかしくはない。
 自分には分からないが、兄弟とはそういうものじゃないかと思う。

「長年の望みがやっと叶った今、私は世界一の幸せ者です」
「……あの、俺は凌じゃないですけど」
「でも弟でしょう?」

 前を向いていた皓司の横顔が自分に向けられる。

「斗上の家族と暮らして育ったのなら、巴は私の弟ですよ」

 あなたは兄とも仲間とも思って下さっていないようですが、と付け足された。



 どう答えたらいいんだろう。
 今までの苦悩が傷口から滲み出てくるような、傷跡を抉られるような息苦しさに襲われる。
 さんざん騙され、陥れられ、芝居だったと笑顔で白状されて尚、家族だと言ってくれるこの人に何と答えればいいんだろう。

 自分の過ちを身をもって教えてくれようとした。
 なのに最後の最後まで分からなかった。理解できなかった。

「どうして…殺そうと思わなかったんですか。俺みたいな考え方しかできない人間は、教えても分からない獣は、必要ないと……」

 そうやって隊士を斬ったことがあるくせに、一番始末の悪い自分を逃した。

「獣ですか。上手い事をおっしゃいますね」

 峠の坂を下りきるまで皓司はぴたりと喋るのをやめ、ひたすら歩き続ける。
 山間に朝陽が見えた。峠を越えると雪はもう止んでいて、空が少しずつ青味を帯びていく。
 真っ白な林道を振り返れば、一直線に並ぶ皓司の足跡がどこまでも続いていた。


「巴は人が嫌いですか」
「……嫌いじゃ、ないです。苦手で……人の、考えてることが」

 いつも後になって知る。
 薄暗い部屋から出してもらえなかった理由も、芸や作法を教え込まれた意味も。
 実父がお前を引き取ってくれると喜んでいた母もまた、何も知らなかった。知らないまま自分の為に涙を流して、自由になれと言った。
 実父に引き取られ彼の目的を知った時、自分は人が苦手になったのだと思う。

「人の心は、分からない。言葉通りに受け取って、でも意味がまったく違って…何を信じれば本当なのか、とか……」
「父と出会った時はすんなり信じたのでしょう? 口の巧い悪人だとは思わなかったのですか」
「瀞舟様を……名のある華道の御家元だと、知ってたので」
「名を騙った別人だとは疑いもしなかったのですね」

 言われてみれば、そういうことも有り得たのか。

「信じる事ができないというわりにすぐ人の言葉を真に受けてしまう。素直で純粋なその不器用さが、巴の長所であり短所とも言えますね」


 相模を出てから皓司は一度も足を止めていない。
 自分を背負って雪道を歩くのは疲れないんだろうか。

 聞いてみようとした途端、変な咳が出た。さっきまで喋れていたのに、声を出そうとすると咳ばかりが出る。傷口の疼痛とは違う、胸を圧迫されるような息苦しさ。
 無意識に皓司の着物にしがみついていた。この咳は何だろう。

「ただの肺炎ですよ」

 そうなると分かっていたような口ぶりであっさりと言われる。

 また寝たきりになるのか。
 また誰かに看病してもらって、また迷惑を掛けるのか。
 何度も、何度も。

 誰に、どんな風に謝ったら、自分の存在は許されるんだろう───







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