三十一. 寒い。 暗くて、寒くて、痛い……。 格子の窓から月が見えた。空が嗤っているような、細い三日月。 「余所見をするな」 空よりもっと近くで嗤っている、父という名の男。三日月の口から獣のような臭いが漂う。 目を閉じて、耳を塞いで、じっとしていればいい。 三日月が消える真っ白な朝が来るまで。 目を開けると白い光が見えた。 朝陽じゃない、もっと小さな、ふわふわした幾つもの白い光。 生まれてはじめて雪に触れたのは、あの人の家。 はじめて誰かと食事をしたのは、あの人の家。 はじめて名を呼んでくれたのは、あの人。 声を聴きたいと思った。 たった一言でいい。自分に掛けてくれるあの人の声が、聴きたい。 「巴」 名を呼んでもらえるだけで不安が消える。寒さも痛みも、全部消えていく。 夢ならこのままずっと─── 「巴。風邪を引くぞ」 なんて、現実的な。 「……瀞舟、さま」 自分の声を聴いた途端、夢ではないことにぞっとして飛び起きた。実際にはわずかも起きられず、冷たい石畳の上に這いつくばって顔を上げただけだった。 朝靄に包まれた、薄暗い雨の朝。見上げた先の濡れ縁に瀞舟が立っていた。 自分はいつここに来たんだろう。 瀞舟はいつからそこにいたんだろう。 冷たい水が鼻先を打つ。静かな雨音。 この人に拾われた日も雨だった。あの時は氷の刃のように冷たく、今は岩のように重い。 「その体では風邪を引く前に三途の川を渡りそうだな」 喉の奥から響く声はとても穏やかで、もっと聴きたいと思ってしまう。 何か喋らなければ。 焦れば焦るほど喉につっかえるようで、上手く声が出てこない。 聞きたいことがあった。 たったひとつだけ聞きたい。そして答えが欲しい。 この人の言葉なら、この人なら、信じられる。 でも。 同時に自分の弱味を見せるようで、失望される気がして、言い出せない。 ここに来ればこの人に頼ってしまうと分かっていた。 何も知らなかった昔の自分なら、どんなことも受け入れてもらえた。言葉を交わさなくても、目を逸らしても、ただ呼吸するだけで全部悟ってもらえた。 今は違う。違うのに、知らぬ間に江戸を抜け出してこの家の庭に入り込んでいた。 心のどこかでは昔と同じ待遇を期待していたのか。 「助けを求めに来たのなら御門違いだ。帰るがよい」 突き放された言葉の先に、この人の温かさを知る。 濡れ縁に弾けた雨が着物の裾をしっとりと濡らしていた。 長い時間、そこに立っていたからだ。 「答えを───教えていただきたくて」 勝手に来た自分を助けるでもなく、見捨てるでもなく。 どうしたいのかと待っていてくれる。 「自分の過ちが分からない……知りたくても、分からないんです」 滑る石畳に手をつき、思うように動かない身体をのろのろと起こす。蛙が一匹、手を飛び越えて庭の茂みに隠れた。 「そのせいで人を怒らせて、でも俺は、それがどうしてなのかを…知らない」 ふっと笑う声が聞こえる。 「巴は怒られるのが怖いか。ならばこれでもかと叱って育てるべきだったかな」 顔を上げると、優しい目が静かにこちらを見下ろしていた。 ほんの数年ここで自分を養ってくれた人。 自分に『家』というものを教えてくれた人。 頼る以外に、この人との付き合い方を知らない自分がいる。 「私の息子は二人とも、よほどこの家が嫌いと見える。『江戸の家』は居心地が良いか」 「……凌も家を出たんですか?」 跡取りだったのではなかったか。 長男の皓司が家を出て、次男まで出て行ってしまっては─── 「凌は出来の良い跡取りだ。私が言っているのは、出来の悪い愚息二人の事」 雨音が止み、はらりと舞い落ちてきた粉雪が手の甲に溶けた。 「お前達はよく似ている。違うのはただ一点」 伏せられたその人の瞼がゆっくりと開く。 刃よりも冷たい一条の光が、ひたと自分を見据えていた。 「人か、獣か。私は野生の獣に餌をくれてやった覚えはないぞ。巴」 |
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