二十六.



 火の粉が舞い、雪が飛び散り、泥が跳ねる。
 泥濘に落ちた隆は両足の自由を奪われてもなお立ち上がろうとしていた。
 男がゆっくりと近づいていく。
 せめぎ合う吹雪と猛火の中にはためく黒衣、白い三日月に似た怜悧な横顔。白銀の刀を振り上げるその姿は何よりも神々しく、一瞬にして敵である事を忘れさせる。

 『殺される瞬間を間近で見ていたのでしょう』

 見ていた。否、見ている。
 見惚れるような光景を、こうして、また。

 『その時、貴方は何をしていたのかと訊いているのですよ』

 綺麗だと思った。ただ純粋に綺麗な光景だと。
 あの時も、闇に踊る男の剣舞が血と月明かりによく映えていて。
 それ以外に心が動かなかった。だから身体も動こうとしなかった。

 そして今また、男の白刃に鮮血が舞う。



「さ……寒河江!!」

 浄次の声にハッとして現実を見た。呆然と目を見開いた隆の首から俄かに血が噴き出す。
 均衡を失った身体が傾き、男は石でも蹴るようにその身を崖下へと突き落とした。

「あーららぁ。呆気なく終わっちゃったねえ」

 耳障りな笑い声を響かせ、女は踏みつけていた浄次の背から足を離す。鎖を引いて浄次と自分を立たせると、何を思ったかあっさり解放した。

「なに驚いてんだい、仲間が死んだら放してやるって言ったろ」
「貴様……」

 浄次は訳が分からぬといった顔で、迂闊に女へ攻撃することを躊躇う。どうするか、そんな問いを含んだ視線がちらりと注がれたが巴は無視した。好きにすればいい。

「ほれ、うちの頭領がお待ちかねだよ。楽しんでおいで」
「聞きたい事がある」

 早々に刀を収めた女が、手に乗せた折鶴に息を吹きかけようとして止める。

「あの男が死ねばお前も死ぬのか」

 黒衣の男を殺してもこの女がその役目を継ぐなら終りはない。だが、何となく単独で自分を狙い続けてくるようには思えなかった。あくまでも男の指示に従っているだけで、命令する者がいなければわざわざ干渉してこないような気がする。
 あるいは男の術によって作られた存在か。そうなら同時に死ぬはずだ。

「さぁねえ? 殺せるんならやってみな」

 ニタリと笑みを残して、女は折鶴から放った極彩色の鳥の群れと共に消えた。


 殺せるなら、殺したい。
 こんな意味の分からない日々を、終わらせたい。


「青山、乱心するな。一対二ならこちらが優……」
「どけ」

 腕を掴んできた浄次を振り解いて男の方へ向かう。男もこちらを見据えて歩いてきた。今度は消えるつもりはないらしい。
 風が止み、徐々に吹雪が弱まる。灰色の雪雲からぽつりと雨が降ってきた。
 足を止めた男は後ろの浄次に視線を移す。

「目障りな刀だ。ついでにお前も」

 紫の瞳が一瞬光ったように見えた。

「ッ……!?」
「おとなしく寝ていろ」

 ドンと地鳴りがしたかと思うと、次いで空気がビリビリと振動する。上から重圧をかけられているような空気の重さに、巴は膝が崩れそうになるのを必死で堪えた。背後で変な声がする。
 地面に這いつくばっている浄次が柄の先を見て呆然としていた。黒半透明の刃身がみるみるうちに濁った鉄色へと変わり、木っ端微塵に砕ける。だが驚いている暇もなく、浄次の体が見えない糸に引かれたように岩へ叩きつけられた。

 今だ───巴は重圧を振りきって地を蹴り、男の首を狙った。
 男はしなやかな動きで後転して着地点を踏み、巴の一閃に残像を残して消える。

 ……リン

 微かな鈴の音。
 左。

 黒い影が見えた。見えたが、応戦する事も身を躱す事もできなかった。速すぎる。
 男の肘だったのか膝だったのかも判らず、こめかみを強かに打たれて吹っ飛んだ。着地も何もなく無様に転がる。即座に立ち上がろうとしたものの、強烈な眩暈と吐き気に襲われた。
 腰に差してある鎖鎌を抜き、男に放つ。追撃がくるかと思ったが男は一歩も動かずに鎌を弾いて容易く鎖を断ち切った。

 暗い闇の底に光る紫。二つの眼球がひたと見据えてくる。
 京の夜に初めて見た時、それは嗤っていた。挑発するように。
 今は違う。

「なぜ……お前が怒るんだ」

 今の男の目にはそうとしか感じられない強い光が浮かんでいた。冷たく冴え冴えとした、氷の剣のような視線。静かな怒り。

「まだ分からないのか」

 思いもよらない返事に一瞬戸惑い、刀を握りしめた。
 隆も皓司も佐野も、たぶん甲斐も、みんな同じ事を言う。
 そしてこの男までもが。

「三度」

 降り注ぐ雨に低い声が響く。

「今から三度、貴様を生かしてやる。その間に考えろ」




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