二十三. 早雲山、大涌谷を越え、台ヶ岳の麓へ一息で登りきる。 上へ行けば行くほど見通しも悪く足場も険しくなるのに、巴の馬は一度として躊躇する気配を見せなかった。崩れない足場を確実に当て、後続の馬に後ろ足で雪を蹴散らすこともせず。山道が嫌いな隆の馬もおとなしく従ってくれた。 「それにしても、裏関所のおかげで民間人がいないとはいえ侘しい所ですね」 仙石原まで来たことがない隆は、目の前に広がる雄大な雪原野を一望して溜息を漏らす。 右を見ても左を見ても雪。晴天なら西に天下の山を拝める絶景だろうが、今ははらはらと舞う粉雪の空との境目も分からないほど平面的な風景だった。 「戦場とするならこれ以上ないぐらい都合のいい場所だ」 「まあそうですが。一歩間違えたら集落まで滑り落ちますよこれ」 緩やかな勾配に続く先は見事に崖。 上方に陣取って背後に道を残すか、下方から攻め上げるか。否、攻めるには苦しい敵だろう。 雪の中からぽつぽつと枝先を見せている低木を数える。その間隔は狭くない。林と違って高木がないのも好い条件だった。とにかく見晴らしがよく、障害物も少ない。 「上方に陣を取りましょう。あそこの高台の裏手も下見しておきます」 馬の腹を蹴ろうとした時、何を思ったか巴が急に馬を降りた。 「……どうした、青山」 不可解な行動に浄次も首を捻る。巴は黙ったまま三歩進んで自分の足元を見、歩いた場所を振り返り、ややあって顔を上げた。 「雪が深すぎて身動きが取れません」 ───真剣に悩んでいるのだろう事は、よく分かる。 推測でモノを言わず自分で確かめてから口を開く巴に呆れるやら苦笑するやら。 敵が人間であればわざわざこんな積雪の地で戦う事もなく、積もっていてもせいぜい足首が埋まる程度。股下まで埋まるような場所は誰にとっても未知だった。 「巴の案は?」 「馬を放しましょう。掻き散らして足場を作るしかないかと」 「じゃ、十人ぐらいで手早く頼むよ。歩ける深さになったら馬だけ走らせておけばいい」 「そうします」 雪に慣らすいい機会にもなる。 隆は上方へ馬を走らせ、周辺を下見した。後ろからついてきた佐野が隣に並ぶ。 「青山さん、落ち着いてますね。いつも通りで意外というか」 「危機感がないだけだ。敵が目の前に現れれば豹変するだろう」 豹変、と聞いて佐野が俯く。夏の敗戦を思い出したのだろう、手綱を握る手に力が入っていた。 上司だった圭祐の命令に従い狂乱した巴を引きずって帰ってきた佐野は、この箱根入りに自ら志願した。仇討ちなどと考えていなければいいのだが。 「佐野。巴に気を取られるな。自分の仕事をしっかりやればいい」 雪の下に土が見えてきたところで、巴は馬を降りてその尻を叩いた。十人の隊士も馬を放し、ところどころ山になっている雪を足で均す。ちょうど徒歩の隊士が登ってきたところだった。 崖下の集落を見下ろすと、家も田畑も真っ白に染まっていた。暖の色が漁火のようにぽつぽつと浮かんでいる。空を見上げれば薄闇に粉雪が落ちてくるだけ。そろそろ夜だ。 「青山。敵の気配は感じるか」 浄次の声に振り向いて一瞬ぎくりとする。黒髪、黒装束、冷たい双眸。だが背格好も雰囲気もまるで違い、動揺した自分に驚いた。緊張しているんだろうか。 「いいえ。それより師走一日って子の刻 (*) 以降ですか、それとも翌朝ですか」 *…午前0時 「……言われてみれば不明瞭だな」 隊士を集めて何事か指示している隆をちらりと見て、浄次は低く唸った。 「よし、今のうちに交代で仮眠を取る。お前は先に寝ろ。夜の方が動きやすかろう」 「何でご存知なんですか」 「阿呆か。寝ながら朝飯を食ったり昼過ぎまで部屋で寝ていたり、日中まともに生活しているお前を見た事がないぞ。どう考えても夜行性だ」 「すみません」 しかし寝ろと言われても横になれそうな場所すらない。小屋も木陰もなく、人の手が一切加えられていないだだっ広い原野なのだ。あたりを見回して適当な大岩を見つけ、そこに腰を下ろす。岩の隙間から小さい獣が飛び出してどこかへ逃げた。 崖下から冷たい風が吹いてくる。 寒いのは苦手だ。でも今年の冬は寒いと思わなかった。例年にない冷え込みだと誰かが言っていたが、寒さより空しさを感じる。 『お前の頭には殺す事しかないのか』 『貴方が怒られる原因は他にあると考えるべきではないですか』 ずっと、隆と皓司の声が耳から離れない。 隠密衆に入って十年。今年で十年が経っていた。そんなに長かったのかと軽い実感を覚え、またそんなに長い時間を過ごしていても彼らの言葉の意味が分からない自分への空しさ。 『辞めたいなら辞めればいい。誰もお前を縛りつけてなんかいない』 春の日の下、町で偶然出会った沙霧に言われた言葉も耳に残っている。 あの時は隊長を辞めたいとは思わなかった。隠密衆を辞めたいとも思わなかった。縛られているとも感じなかった。 今はただ、こう思う。 隊長の職も隠密衆の籍もいらないから、自分に答えをくれと。 |
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