二十二. 寒いのに暖かいような、灰色の空。江戸の朝がこの天気では箱根は雪だろう。 素足で庭に降りると霜の割れる音がした。冷たいとは思わない。足の裏でじんわり溶ける氷の感触を確かめるように、巴は意味もなく霜の上をぺたぺたと歩いた。 無心に庭を一周した時、いつの間に入ってきたのか縁側に座っている黒猫と視線が合う。 自分と黒猫との間に枯れ葉が一枚ひらりと舞い落ちた。 瞬間、鍔を押し上げて右手を一閃した。 宙に止まったかのように見えた葉が静かに割れる。その向こうで、刀の光を反射した大きな金目がくるりと光った。 二枚の葉が土の上に落ちるのを見ていた黒猫は、ひとつ瞬きしてどこかへ消える。 幾度も夢に出てくるあの男のように。 「何でおれが居残り組なんですか」 五十名に出陣を言い渡すと、思っていた通り甲斐が噛み付いてきた。皓司は帳簿を閉じて浄次の前に置き、不満を露にした部下へ諄々と諭す。 「居残りではなく温存です。敵に宣戦布告をした以上、今日発つ者がみな無事に帰還すると考えるのは浅はかでしょう。敵の狙いは我々だそうですが信憑性も無し、最悪我々が消えれば次なる標的は言うまでもない事です。全勢力を送り出すわけにはいきません」 「そんな事は分かってますヨ。でもおれは城を守る気なんてさらさらない」 「主戦力として貴方を評価しているのにまるで駄々っ子ですね」 「へぇ、ここに来て評価デスか。だったら尚更」 「───甲斐。少しお黙りなさい」 放っておけば際限なく減らず口を叩く部下を牽制し、浄次と隆、そして巴から一歩下がって膝を向けた。 「馬は城門に揃えてあります。どうぞ御健闘を。江戸はお任せ下さい」 深々と下げた頭の上で誰かの生唾を飲む音がはっきりと聞こえる。それを隠すように咳払いした主は、立ち上がって一同に告げた。 「では皆、これより出陣する」 皓司の見送りは縁起でもないと隆に言われ、居残り組と出陣組は広間で別れる。 そもそも最初は浄次と巴以下五十名の隊士が行く予定で、隆の名はなかった。浄次にとってこの戦は隠密衆の生死を分ける決戦であり、また責任を負うべき舞台。負ければ腹を切るなどと言っていたが、巴を除く三人衆である自分と隆を江戸に残す理由は他でもない、隠密衆の全権を置いていくという事だ。箱根に散る覚悟はできているらしい。 だが隆は一人でも有望な隊士の無駄死にを避けるべきだとし、自分が行く代わりに保智を江戸に残してほしいと提案した。戦力的に考えても浄次と巴と隆、そして皓司と甲斐と保智の分配でほぼ釣り合いが取れるだろうと。 「それで? おれが残された理由は何ですか。ヤスなら分かりますが」 不満を顔に描いたような甲斐が不貞腐れて保智に顎をしゃくる。前日に隆から一言あったのだろう、保智は複雑な表情で刀を手に広間を出て行った。 「先程も言ったように温存策です。貴方は私の部下でしょう」 「だから命令に口答えするなと? あなたこそおれの上司でしょう」 上司なら口答えする部下だと分かっているだろう───そんな傲慢さを滲ませて噛み付いてくるところはまったく成長していない。もっとも、らしいといえばらしいのだが。甲斐が憎まれ口を叩かなくなったら平に格下げしてやろうと思う程度には信頼を置いている。 だからこそ行ってもらっては困るのだ。 「その気位の高さを見込んで、敢えて手元に置いたのですよ」 怪訝な色を浮かべて直視してくる甲斐に、皓司はそそのかすような微笑を向けた。 「城を守るのは私の役目。貴方には私の盾となってもらいます」 「盾……?」 「公儀への忠誠もない、任務でも真っ平、そんな不届き者に相応しいのは私しかおりません。隊長の死は部下の恥と言い切った貴方ですからね。せいぜい私の為に刀を振るいなさい。城や隠密衆の為になどと不本意な形で犬死にするよりましでしょう」 甲斐は呆気に取られた表情で口を閉じた。公儀への忠誠心のなさはお互い様だろうと悪態つきながらも、それ以上の反論はしてこない。 躾の悪い犬に必要なのは絶対的な圧力と自由の尊重だ。 「……その言い方だと箱根は負け戦と見てるわけデスか」 「さてどうでしょうね。得るものがあれば負け戦とは言いませんよ」 休まず箱根へ向かって数時間足らず。平民の足では軽く三日かかるが、隠密衆には三日もあれば西の果てまで行ける。 しかしいざ宮ノ下までたどり着くと、道という道が厚い雪に覆われていた。 「ここまで積もっているとは……計算外だな」 「だから念のため小田原で雪慣れした馬を買いましょうと言ったじゃないですか」 江戸の馬は雪に慣れていない。徒歩の隊士が追いつくまで宿を取ると言い出した浄次に、隆は今日何度目かの溜息を吐いた。 何か変わったかと思えばこれだ。頑固で後先を考えない短絡的な思考。馬に金を費やすのは無駄だと言いながら、足止めされる時間が無駄だとは考えない。期日にはまだ一日の余裕があるものの、現地入りは早ければ早いほど有利に働くだろうに。 標高が高く空気が薄い場所は平地よりも体力の消耗が激しい。酸欠になれば判断力も鈍る。土地に身体を慣らす時間があるかないかで結果はずいぶんと違うのだ。 まったく、この期に及んで愚鈍な考えをする浄次に腹を切る覚悟なんかないだろう。 雪山を前に足踏みしている愛馬の背を撫でると、隣からスッと青毛の頭が出てきた。 額に“一つ巴”のような勾玉模様があることから巴の愛馬に選ばれた黒い馬。 「俺が先導して登ります」 蹄を鳴らして逸る馬の手綱を軽く引き、馬上の巴が振り返る。 「こいつの後に続けば登れると思います」 隆は顔にこそ出さなかったが面食らった。道中ずっと敵のことしか頭にないような威圧感を醸し出していたわりに、ふと冷静な判断をしてみせる。 だから巴を認めていたのだ。半年前までは。 隊長としても隊士としても、一瞬で適切な判断ができる頭の良さに一目置いていた。だが巴には才能があっても自覚がなかった。それが唯一にして最大の欠点であり、残念に思うところだ。 「なるほど。巴の馬は山が好きだから、雪の下の足場を探るぐらい朝飯前か」 馬のことは肌で分かるのに人のことは肌でも言葉でも分からない。 こんな部分がいい例だろう。 「御頭、どうしますか。俺は巴と一緒に仙石原まで行きますが」 「俺も寒河江隊長とともに行動します」 五十名の隊士から選抜して臨時の班長役を当てていた佐野が名乗り出ると、浄次は観念したように白い息を吐いて馬の首を反転させた。 |
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