二十一. 夏が終わり、秋の紅葉も見納めになってきた神無月の末日。 恐ろしい半年だった。本当に現実なのか、長い夢でも見ているのではないかと己の頭を疑う毎日。だが待てど暮らせど夢が覚める気配もなく、どろどろした現実だけが続く。 浄次の不眠症は日増しに重くなり、布団の上で胡坐を掻いたまま日の出を拝むことも少なくなかった。日中も部屋からほとんど出ず、食事を済ませたらさっさと自室に引き上げる。軽率な言動は控えるようにと皓司に釘を刺されたせいもあるが、誰とも顔をつき合わせたくない心境でもあった。 黒衣の男の目的は隠密衆。その理由は?原因は? 討幕のために隠密衆が目障りだというのなら分かる。殺した謀反人の縁者が恨みを抱いて一斉蜂起したという話でも分かる。 しかし、相手は人ではないのだ。人に雇われている様子もないという。 隠密衆が何者かに脅かされていることはまだ諸藩に知られておらず、一言喋れば流行り病のように広がる江戸でもそんな噂話は立っていない。御上の協力があってこそだが、いつまでも上に甘んじていては勝呂に弱味を握られているようなもので好い気はしなかった。 三月半前の負傷以来、巴には出陣を命じていない。そして遠征に行けどもまた敵の姿は最後までなし。巴がいないから出てこないのだ。もはや疑う余地はなかった。 いつまでも敵の気まぐれに振り回されていては、かつての父と同じ目に遭う。 先代・浄正が御頭になった初の陣で、素性の知れぬ強敵が現れた。 隠密衆も敵も区別なく惨殺し、浄正ただひとりを狙って十三年間も執拗に追い回した挙句、ある日を境にぱたりと現れなくなった謎の男。 二十年以上経った今でも父はその正体を知らない。 何が原因で浄正を狙っていたのかも、突然現れなくなった理由も。 その渦中に生まれた自分は当時の父が怖くてたまらなかった。暴力を振るったりはしなかったが、たまに帰ってきたと思えば渋面を隠しもせず黙り通し。母は父の態度を横目にまったくの無関心で、夫が帰ってきたというのに平気で遊びに出かけてしまう。 しばらくすると父と祖父が大声を張り上げて喧嘩し、いつの間にか父は城へ戻った。 自分に会話能力が備わった年頃にはたまに口を利いてくれたり寝かしつけてくれたりもしたが、父の口から出る言葉はいつも隠密衆のことで、自分や母の事など何ひとつ聞いてこない。 父にとってあの十三年間は想像を絶する生き地獄だったのだ。 その様を端的に見てきた自分は、心底から父の立場でなくてよかったと思った。 だが何の因果か、今まさに当時の父と同じ状況に追い込まれている。 こんな日々が先十年も続くなど言語道断。気がふれて死ぬに違いない。 「柊、いるか」 「御前に」 どこからともなく現れた影が背後に気配を伝えてくる。 燭台の炎すら揺らさない、忍びの飛車。御頭従属という別格の役割を持つ一人だが、戦時以外にどう使えばいいものかと放置しっぱなしだった。それでも呼べば出てくるあたり、飛車一族は忠義というより薄気味悪い。 浄次は文机の上の紙をきっちり折りたたみ、封に葵御紋の判を押した。 「これを届けてくれ」 手紙を受け取った飛車が一呼吸の間をあけて尋ねてくる。 「どちらへ」 「黒衣の男とやらだ。居場所は分からん」 「───御意」 方法も理由も聞かれなかった。聞かれても答えられなかっただろう。 しかし迷いはない。 ひと月近くも文机の上に置いていた紙が消え、浄次はその空白に拳を打ち付けた。 (二の舞を踏んでなるものか) 生気に欠けた風体で三食の時だけ広間に出てくる浄次と巴をどうしたものかと思っていたが、今朝の浄次は珍しく引き締まった顔つきで現れた。 「皆、話がある。飯は少し待て」 膳を運び込もうとしていた侍女を制し、隊士たちを座らせる。上座に一人足りないのを知って不満そうな顔を見せた。つまり巴にも必要な話というわけだ。 隣に座っていた皓司がつと立ち上がる。 「巴を呼んで参ります」 皓司が巴を連れて戻ってくるまで、浄次は一言も喋らなかった。 下座を見れば居心地悪そうに視線を動かす者、黙って微動だにしない者、あるいは卓に肘をついて明後日の方を見ている者など様々。 この半年、何もせず自室に引き篭もっていたお飾り大将が今更なにを話そうというのか。 そんな空気がありありと滲み出ているのに浄次はただ前を向いていた。 何か変わったかなと、隆は内心興味をそそられる。 「これで全員揃いましたか」 巴を連れて戻った皓司が一座を見渡して障子を閉めた。 巴は巴で傷は完治したものの心は荒む一方で、表に出しこそしなかったがその表情は穏やかではない。この三月半、朝から晩まで庭で刀を振っている。エルを敵と間違えて襲った件もあり、外出は一切禁じた。それがまた不満なんだろう。自分の足で敵を探すことも許されない。 皓司の着座を待ってから浄次がおもむろに口を開く。 「昨夜、黒衣の男へ文を届けるよう飛車を出した」 はて、その言葉を理解できた者は何人いるか。 隆は瞠目して皓司の反応を窺った。返事は瞬きひとつ。先を聞け、という合図らしい。 「言うまでもなく敵の素性どころか居場所さえ知らん。だが先方はこちらの動向が手に取るように分かるはずだ。そこで飛車を放った。探していると分かれば即捕まえるだろう」 興味なさそうに聞いていた甲斐と保智が同時に顔を上げる。隆も腰が浮きかけた。 浄次にしては大胆な───どちらかといえば先代が思いつきそうな。 「生贄、ですか。手紙を渡す為の」 隆の言に隊士たちがざわめく。いつもなら皓司が制するその場を、珍しく浄次が一喝して黙らせた。皓司の口元がかすかに笑ったのを見た隆は拍子抜けして隣を睨む。 「皓司の入れ知恵かい?」 「まさか。私にそのような事を進言できる権利はありません」 「二人とも黙れ」 偉そうに、などと文句はいくらでも出てくるが、それより浄次の変化に驚いた。 さては先代の失敗から学んだか。 何にせよ閉じ篭って布団をかぶっていただけではなかったのだから、ここは浄次の話に耳を傾けてやるべきだろう。 「敵がいつ出てくるかと待ち構えていては埒が明かん。謀反人どもと同時に出てこられても怪我人と死人が増えるだけだ。向こうの狙いが我々だけだというのならわざわざ遠征を利用するまでもない、直に決着をつける」 「ほう。手紙とは果たし状ですか」 皓司は感心したように浄次を仰ぎ見たが、隆は心中阿呆かと毒づく。敵は妖しであって人の道理が分かる相手ではない。それなのに果たし状とはまた義理堅い性格だ。 「日時は師走一日、箱根仙石原にて青山以下五十名で迎え撃つ」 ぴくりと反応した巴に、浄次はひたと視線を向けた。 「これで最後だ。討てば落着、討てねば俺は腹を切る」 |
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