二十.



 ぶらぶらと階段を下り、最後の一段を飛び越えて着地した時。
 脇の茂みに白いものが光ったと思った瞬間、何かが飛び出してきた。犬にしてはデカすぎる……否、白い光は日本刀だ。

「どぁっ!」

 間一髪。巻き添えを食らって斬られた周囲の草木が青臭いにおいを放つ。
 相手は一呼吸も置かずに刀をブン回して襲い掛かってきた。子供が振り回すのとはワケが違い、訓練された動きはそこらの人間では有り得ない。
 こっちは丸腰だというのに、アンフェアな奴もいたもんだ。

「おい待てよ。誰かと間違えてんじゃね?」

 人の女を寝取った覚えもなし、恨みを買った覚えは少々自信ないが日頃から派手にやらかしているわけでもなし。仕事中と町中では行儀のいい方だ。
 尋常でない殺気に呆れながら白刃をひとつふたつと躱す。身のこなしも刀の返しも速い。速いのだがとにかく隙だらけで、がむしゃらに噛み付いてくる手負いの獣そのもの。
 手負いの、とくれば隠密衆の負け犬が思い浮かぶ。
 よくよく相手に目を凝らすと白い包帯がちらちら見えた。むしろほとんど包帯。
 避けるだけで掠りもしなければ反撃もしない自分に、苛立った相手が唸り声を上げて猛攻撃を仕掛けてくる。そんなに手応えが欲しいならくれてやるか。

「あのな。俺はてめえに」

 刀を蹴り飛ばし、懐へ飛び込んでドテッ腹に一撃。

「襲われる覚えなんか」

 動きが鈍った相手の横っ面に、さらに一撃。

「ねぇんだよ!」

 仕上げにくるっと回し蹴り。一応加減はしてやった。
 
 紙切れのように吹っ飛んで撃沈した相手の顔を篝火が照らす。
 血の気の失せた青白い顔、細い肩、手負いの獣。

「やっぱりお前か、巴」

 ジェイ曰く、犬小屋一番の重傷者。自分に言わせればこいつは頭が一番重症だ。
 誰と間違えたのか知らないが、まだ完全に傷が塞がっていないのにフラフラ遊び歩くとはいい度胸じゃないか。医者の忠告を何だと思ってやがる。安静にしていろと言ったのは親父であって自分ではないが。
 襟元を掴んで起こすと、伸びた昆布のようにべろんべろん。傷口への打撃は避けてやったのに肩の包帯に血が滲んでいた。暴れすぎだ。
 そもそも敵が城の敷地内でぶらぶら階段を下りるか? シチュエーションからしておかしいと思わないのか? そこまで頭が回らないほどイカレているってことか。

(めんどくせえ男)

 予定を変更して左方面へ寄り道する。
 いつになったら夜食にありつけるのか、もう考えないことにしよう。




「目が覚めましたか」

 声が聞こえると同時に冷たいものが頬に触れた。

「エルを敵と間違えて襲撃するなど、まったく聞いて呆れますね」

 軽く押さえられた手拭いが思いのほか冷たくて鳥肌が立つ。瞬きを繰り返す自分の顔がおかしいのか、皓司は口元に笑みを浮かべて手拭いを桶に戻した。

「ひと月で何回殴られれば気が済むのですか。美人が台無しですよ」

 何の事を言われているのかすぐには理解できなかった。
 天井はほんのり明るく、半分開けられた障子の向こうも明るい。朝か昼だ。夜中に目が覚めて外へ行ったのは覚えている。途中で道が分からなくなり、それからどうしたのだったか。
 そう、鈴だ。鈴の音を聞いた。
 そのあとの自分の行動がさっぱり記憶から抜け落ちていた。

「俺が、エルを……?」
「帰り道で突然襲われたから返り討ちにしてやった、と貴方を担いで来て下さったのですよ。おなかをぐうぐう鳴らしながら。あちらは丸腰だったそうですが、彼が貴嶺さんの弟だったのは幸いでしたね」

 エルが喧嘩に強いのは知っている。でも素手で刀とやり合えるのは、やはり身体能力が並じゃないという事だろう。
   なんとなく頬に手を当てる。新しい痛みの下に、別の痛みが残っていた。
 佐野と隆の拳。傷ついたのは自分ではなく彼らの方だ。それがどんな傷かは分からないが、彼らの言葉には怒りと同じぐらい痛みがあったように思う。
 心が痛むとはどんな心境だろう。そんな事すら自分は知らない。

「斗上さんは、どうして怒らないんですか」

 何をするでもなく座っている皓司に尋ねると、彼は不思議そうに見下ろしてきた。

「巴は何故私が怒っていないと思うのですか」
「……怒ってるんですか」
「何故怒っていると思うのですか」

 まるで噛み合わない。

「俺は、人を殺したいわけじゃないです。でも殺すのが仕事でしょう」
「人を殺す仕事ですが、人を殺すのが仕事ではありませんよ」

 皓司は微妙な言い回しで断言する。

「よく考えなさい、巴。誰も仕留められなかった事を責めてはいないでしょう。貴方が怒られる原因は他にあると考えるべきではないですか」
「それならあの男を殺しても」
「誰の怒りも収まりません。巴の気持ちが晴れるだけです」

 やっぱり、分からない。
 どうやって答えを見つければいいのか、それは教わることではないらしい。

 生まれてからずっと、人の言う通りに生きてきた。
 芸をしろと言われれば踊り、琴を弾けと言われれば弾いた。不快な事も、苦しい事も、何でも言われた通りにしてきた。褒められたくてそうしたわけじゃない。言われた通りにしないと怒られるからだ。
 でも途中で人生が変わった。初めて自分の意思で考えて行動した。
 先のことなど考えず無心に走り続け、結局どこかで意識を失くして、偶然通りかかったというひとりの男に拾われた。

 その人は何も強要せず、何も求めず、何も答えをくれなかった。
 代わりに、何もすることがない自分に剣術を教えてくれた。
 ある日、お前は何の為に刀を振るうのかと聞かれたことがある。
 強くなりたいからだと迷うことなく答えた。
 ならば強くなれと、その人は言ってくれた。

 今の自分が同じことを答えたら、あの人は何と言うだろうか。




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