十九.



  風も音もない夜の河原に、ひとりぽつんと佇んでいた。
  川の水がたぷたぷと足首を叩き、ぬるりと流れていく。
  暗く、黒い川。
  川面に映る歪んだ満月がやけに眩しい。

  川面から目を逸らして顔を上げると、赤い橋の上に人がいた。
  欄干に立っているその影がこちらをじっと見ている。
  闇の中では人の表情なんて見えない。
  なのに、その男の唇が笑っていると分かった。

  ぞっとするような美貌。
  誰かに似ていると思った。けれど誰なのか思い出せない。
 
  ただこちらを見てくるその男は、瞬きのあとには消えていた。
  黒い川も金の月も消え、突然真昼間の雑木林に放り出される。

  小面をつけた女が立っていた。
  血のついた太刀を手に、左手には生首がひとつ。
  ふと背後の気配に振り向くと、般若の面をつけた男がいた。
  男もまた、血のついた刀を手に生首をぶら下げている。

  刀を抜こうとして、腰に何もないことに気づいた。
  腿に装着してあるはずの飛苦無もない。
  死体の刀を借りようと辺りを見回したが、骨ひとつ転がっていなかった。

  女のせせら笑いが竹に響く。

 「何を探してるんだい?」

  刀だと言おうとしたが、声がつっかえてうまく出ない。
  声を出そうとすればするほど喉に焼けるような痛みを感じた。

 「お探しものは、これ?」

  女が左手を掲げて生首を正面に向ける。
  誰だろうと思うまでもなく、呆然と自分の喉元に手が伸びた。
  
  二人が能面を取る。

  男の顔も女の顔も、二つの生首も全部、それは自分の顔だった。





 息苦しさに目を開けると、薄暗い天井が視界いっぱいに飛び込んできた。遠近感が掴めず、天井が落ちてくるような錯覚に陥る。
 障子の外は暗く、夜になったばかりなのか朝になる前なのか分からない。
 ゆっくりと半身を起こすと、痛みは感じるものの歩くぐらいはできそうだった。ずっと寝たきりで思うように動かない足をさすり、壁に手をついて立ち上がる。寝つけない夜に部屋でじっとしているのは落ち着かない性分で、外の空気を吸いに出た。

 上総から戻ってきて二週間。
 最初の一週間はあまり記憶がない。というのも目が覚めては暴れ回っていたらしく、傷口が開いたり熱を出したりの繰り返しで、しまいには薬で強制的に眠らされた。暴れなくなると薬は飲まされなかったが、眠るたびに同じ夢を見るようになった。また同じだと意識のどこかで感じているのに、何度も自分の生首を見て息を呑む。

 死ぬことが怖いんだろうか。
 違う。あの男を殺せないことに苛立っているだけだ。
 手の届く距離にいながら何もできない歯痒さ。
 三条河原で刃を交えたあの一瞬を逃さなければこんなことにはならなかった。
 すべては、あの男さえいなければ。

 そんなことばかり考えているうちに道ではないところを歩いていたらしく、はたと足を止める。所詮は江戸城の敷地内、迷子になったら夜勤の見回り兵を探せばいいだけだが、それにしても自分がどこら辺にいるのか皆目検討がつかない。
 急に疲労感に襲われ、目の先にある岩の上に座ろうと足を踏み出す。

 だが、直後に聞こえたかすかな音に全身が総毛立った。
 息を殺して耳を澄ませる。

 ……リン

 もう一度、確かにあの鈴の音を聞いた。




 隠密衆のバカどもが怪我してからというもの、度々ジェイは衛明館へ診療に行き、そのせいで自分は城のおっさん達の診察に当たっていた。城は城で今ちょっとした風邪が蔓延している。

「あー終わった終わった。ダラダラ暮らしといて風邪なんか引いてんじゃねえよ」

 独り言という名の悪態を呟きながら、エルは階段の上で背を伸ばした。
 数ヶ月前から沙霧の都合でしばらく居候を禁じられ、城の敷地内にあるジェイと兼用の建物に戻っている。殿様のいる本丸からは離れた場所にあるので夜道を歩いて帰らねばならない。
 夏も終盤なのか、今夜は少し肌寒く感じた。

(白衣置いてこなきゃよかった)

 どうせ明日も着るのだからと休憩室に脱ぎ捨て、半袖シャツ一枚で出てきたことを後悔する。寒がり体質ではない自分が寒いと思うぐらいだから、今頃朱雀は布団にひっくるまって寝ているだろう。

(ってかあの野郎、いつになったら昼メシ持ってくるんだよ)

 居候禁止令を食らってブーブー文句を垂れたら、朱雀が「たまに昼飯の差し入れしてやるから我慢しろ」と言ったのだ。なのにまだ一回しか来ていない。
 たまに、という日本語は一回こっきりの意味ではないはずだ。
 手が空いたらとか気が向いたらという意味であって。
 つまり。

(……気が向かねえって事かよ)

 今度来たら監禁してやろうかと企てながら、ポケットの鍵を引っ張り出す。
 と、キーホルダーに着けていたお守りが切れて転がり落ちた。
 お守りとして持っているわけではなく、お守りだというからそのように受け取っただけの小さな赤い鈴。拾い上げて月明かりに照らしてみると、朱雀自ら細工したという小洒落た模様は見事に剥げてしまっていた。
 落としたらハゲたと正直に言うべきか、何も言わないでおくべきか。
 朱雀は自分の作ったものを壊されるのが嫌いだ。でもこれは不可抗力だ。
 素直に謝って描き直してもらおう。
 
 鈴をポケットにしまい、何か温かいものを食べようと夜食を練った。



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