十七.



「犬小屋? 知るかよ、俺は帰る」

 城内の一室で帰り支度をしていたエルは、腕時計を嵌めながら父のジェイに一瞥をくれた。もう十時半だ。さっさと帰ってメシ食って風呂入って、それから───

「分かったから来い」
「おい親父、人の話を聞け。何が分かったんだ……っててて!」

 耳を引っ張られて強制連行させられる。分かったから放せと頼むと耳からは手を放してくれたが、代わりに襟を掴まれた。親父に否は通用しない。
 観念して嵌めたばかりの腕時計を外し、脱いだばかりの白衣を着直した。


 城の敷地を歩くこと数分、今にも倒壊寸前といった構えの犬小屋もとい衛明館に着く。
 御典医といっても殿様の専属というわけではなく、大奥から老中、衛兵や城仕えの者達まで診察する。その中で優先度の高いのが殿様なだけだ。鼻水を垂らして困っている殿様と心臓発作を起こした老中がいれば鼻水優先。
 それはそれで構わないのだが、時間外労働に指名されたのはジェイであって自分ではない。夜のお楽しみを奪われただけでも不愉快だというのに、まったく遣る瀬無い。
 玄関の引き戸を壊す勢いで開け、土足のまま上がりかけて親父に引き戻された。履物を脱ぎ散らかして大広間とやらへ向かうと、青襟の隊士がびくびくしながら案内してくれる。親父はバカ丁寧にも「夜分に失礼」などと呑気な挨拶をした。夜分に失礼されたのはこっちだ。

「エル。注意しておくが城と違ってここは」

 後ろで何事か言い出すジェイの小言を適当に流して広間に入る。

「おら半死人ども、とっととやるぞ。一列に並んッ…ダッ!!」
「鴨居が低いから気をつけろ」
「……俺を引き止めてから言え」

 広間の敷居を跨いだ瞬間、鴨居が額を直撃した。これだから日本の建物は嫌いだ。親父も親父で、土足で上がることよりこっちの注意を事前にして欲しい。

「大丈夫ですか。エルは背が高いから不便でしょう」

 広間の入り口でしゃがみ込んでいると、桶を抱えた皓司が廊下の先から歩いてきた。襷がけの格好を見るからに、手伝う気はあるらしい。皓司は親父を見止めると慇懃に頭を下げた。

「ジェイ、夜分にお越し頂いて申し訳ございません。十五名おりますのでよろしくお願い致します。私どもに出来る事がありましたら何なりとお申し付け下さい」
「構わん。しかし助手は多い方が助かるな、消毒と浅い傷は任せよう」
「畏まりました。甲斐、エルの助手をお願いします。保智の班の方々は桶の水替えを」

 ジェイを呼びに行って一足先に戻ったばかりの甲斐が桶を手に歩いてくる。やる気のなさそうな顔しやがって、と内心毒づいたが自分もそういう顔をしているんだろうと自覚し、文句を飲み込んだ。さっさと帰る為にはさっさと終わらせる。ここは黙っているのが利口だ。


「……お、お願いします。肩と腿をちょっと……」

 最初の患者、俺を見て後退る。

「オレは……わわわ脇腹と右腕と……ごめんなさいっ」

 次の患者、俺を見て涙目になる。

「頭を切ってしま……や、大したことは……ない、です」

 次の患者、俺を見て失神寸前。

 ───なぜだ。

「小心者が多くてすみませんネ。エルは黙ってると余計に人相が悪いから」
「余計に人相が悪いって、余計なのはお前の一言だろ」

 小心者の患者と余計な助手は無視することにした。自分は治療しに来た医者だ。こいつらと馴れ合う為に来たわけでもケンカをしに来たわけでもない。
 傷を縫い合わせ、点滴をブッ刺し、飲み薬を各自にバラ撒いてハイ終了。

「親父、俺の担当は終わったから先帰るぞ」

 意識のない重傷者を診ていたジェイは顔も上げずに「ああ」と生返事で手先に集中していた。背中まで貫かれたらしいその左肩は、あと数ミリずれていれば肺を傷つけていただろう。運がいいのか偶然か。失血死しなかっただけでも強運の持ち主であることに変わりはない。

「ガーゼが足りない。そこのを取ってくれ」
「だから帰るっつってんだろ……ほらよ」
「よし、あとは包帯を巻いておけばいい。頼んだぞ」
「俺も頼みがあるんだが自分の世界に入るのやめろ」

 二十歳になったら本気で独立を考えるべきか。
 麻酔で眠っている巴を包帯人間にして一息つくと、犬小屋仕えの侍女が茶をもってきてくれる。親父はさっさと隅の座布団に座って茶菓子まで食っていた。




 宏幸達が遠征に出でいた間は城外の見回り、戻ってきたら死人と怪我人だらけで使い走り。
 どうにも身辺が空回りしている。慌しいというより所在がない。

「ご苦労様でした。甲斐もそろそろ休みなさい」

 怪我人を部屋に投げ込んで戻ってくると、襷を解いた皓司と鉢合わせた。医者親子を外まで見送ってきたところだと言い、広間の片付けをしていた隊士達にも休むよう伝える。彼らが全員引き上げるのを待ってから、甲斐は改めて上司の顔を眺めた。
 にこりともしない能面。この人が笑顔を浮かべている時ほど信用ならないものはないが、愛想のない時はそれはそれで腹の底が知れない。

「どうしました? 私の顔に何かついてますか」

 澄ました声。平素と何も変わらない態度。
 黒衣の男と二度に渡る接戦で隠密隊士の半数以上を失い、巴は自分の隊より敵の事しか頭になく、ついにあの温厚な隆までもがキレたというのに。

「あなたの考えてる事が分かりません。少し冷静すぎるんじゃないデスか」

 巴の非情をなじっておきながら平然と物事を処理し、感情の欠片も見せない。ある意味キレているのかと思ったが、そんな雰囲気でもなく。
 もしかしたらこれが敵の正体ではないのかと疑心が働いた。
 背格好なんて記憶は曖昧なものだ。外見はいくらでも変えられるし、二刀を操るだけに左利きでも通じる。敵の一団が不死身だからといって黒衣の男まで不死身だとは限らない。男には掠り傷ひとつ負わせられなかっただけの話だろう。

 隠密衆に戻ってきたのは先代の命令だと言っていたが、ただで戻ってくるような気安い男ではない。崩壊寸前の組織を土台から立て直す為に戻ってきたのだ。となれば手段は選ばないはず。
 しかし思えば昼間、皓司は自分と共にいた。京の一件から市中見回りの時は毎回同行させられ、宏幸が文句を垂れるのであいつと行動したらどうかと聞いても「連れて歩くなら美人がいい」などとつまらない返事で結局理由は分からず終い。
 自分はともかく、今日城の外で皓司が単独でいた時間はなかった。

「何を言い出すかと思えば。人に思考を読まれるほど隙だらけではありませんよ」

 障子を一枚一枚閉めて歩くその背を目で追う。まだ庭にいた黒猫を手招きして抱き上げた皓司は、燭台の灯りを吹き消して広間を出た。

「私を疑うのならもう少し利口にお考えなさい」

 見透かしたような微笑で黒猫を手渡される。
 疑われる自覚はあるらしい。だが確かに、あまり利口な考えではなかった。隠密衆の土台を立て直すならこんな手の込んだ事をする必要はない。いらない人間を切り捨てればそれで事足りる。軟弱になった組織への喝入れなら片っ端から叩き直せば済む。

 腕の中であくびをした子猫をひと撫でし、二階へ続く階段の下で放した。



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