十五.



 圭祐が黒衣の男の足元に崩れ落ちる。
 男の脚が空を切り、小柄な身が鞠のように弾き飛んだ。腕がぐにゃりと曲がる。すでに折れていたそれは、体の横でぶらぶらと揺れるだけだった。
 満身創痍、ではない。そんなものはとっくに超えている。屍のような姿。
 死んだと思った。
 ───が、圭祐は立ち上がった。
 こちらに背を向け、まるで道を譲らないという風に。
 男が仕掛ける。圭祐の足が土を抉った。刃と刃の摩擦で火花が散る。しかし片腕の折れた身では不利だった。両手でも不利だ。男の手が圭祐の首を掴み、叩きつけるように地面へ落とす。
 生きているのが不思議なぐらい、圭祐の身体には力が入っていなかった。
 それでもなお、男の手から逃れ、立ち上がる。


 巴は無意識に身を起こして走り出した。あの男を斃さなければ何も終わらない。
 殺せ、殺せ、首を撥ねろと、頭の中で自分の声が叫び続ける。

「青山さん!? どこへ行くんですか、退きましょう!」

 途端、佐野に腕を掴まれて後ろへよろけた。振り解こうとしても手を離してくれない。

「あの男を殺す。離せ」
「あなたを連れて戻れと言われたんです!」

 知ったことか。
 江戸に帰る理由はない。ここにとどまる理由はある。圭祐の隊士が報告に戻るのなら、自分はここであの男を殺す。たとえ身内を斬ってでも。
 鎖が手のひらに食い込んだ。そう感じた時には佐野に向けて刀を振り上げ───

「いい加減にして下さいよッ!!」

 絞り出すように声を荒げた佐野の拳が顔面に飛んできた。

「なんで班長があなたを連れて行けと言ったか、分からないんですか!」

 分からない。
 圭祐が何度も立ち上がる理由も、佐野が涙を流して怒る理由も、自分が立てない理由も。
 戦う事以外、強くなる事以外、自分は何も知らない。何も分からない。
 どうして分からないのかが、分からない。




 気付くと佐野に肩を担がれて引きずられていた。
 広い田んぼの畦道。水田に反射した日の光が、俯いていた巴の目を照らす。顔を上げると前を歩いている隊士の背が七つ。みな創傷で血だらけだった。感覚の鈍い首を回して後ろを振り返る。
 血と汗と涙の入り混じった顔で、数人の隊士が前を向いたまま黙っていた。一人の肩には宏幸の遺体が担がれている。片腕がなかった。
 また俯く。口から血が垂れ落ちた。初めて、血の味を知った。

 赤味を帯び始めた日が少しずつ影を生み出す。
 葬列のように黙々と先を行く隊士の影を、二つの黒い影が覆った。

「忘れ物だ」

 腹の底に響く低い声にハッとして顔を上げる。道の先に黒衣の男と小面の女が立っているのを見た瞬間、全身の血が沸き返るのを感じた。幻覚じゃない。幻聴でもない。
 その証拠に、男が投げ寄越したものが足元にドサリと転がってくる。

 それは、糸の切れたあやつり人形。
 それは、人だったものの成れ果て。
 それは、圭祐という名の骸。

「うちの頭領はお人好しだから、あー人じゃないけどね、わざわざ届けてやったのさ」

 小面の女が肩を揺らして笑う。
 沸々と煮え滾る血を噛み、佐野を押し退けて刀を振り上げた。しかし一歩も進めずに膝が落ち、地に手をつく。女の笑い声が辺りに甲高く響いた。

「その死体のおかげで命拾いしたんだ、黙って帰りな。じゃーねー」

 二つの影が宙に消える。
 立てた爪に土が食い込んだ。握り締めても手応えのない、柔らかな土。
 圭祐の骸もまた、隊士の腕の中で柔らかな血肉の塊に成り果てていた。

 嗚咽を堪えてすすり泣く隊士と共に、再び赤い道を歩く。
 馬を繋いである小屋へ辿り着くと、佐野は何頭かの手綱と鞍を外して馬の尻を叩いた。乗る人間がいないのだ。訓練された馬は野生に帰してもいずれ人の元に落ち着く。
 馬上へ乗せられ、佐野に背を預けるようにして江戸へ向かった。
 先頭の馬の背に圭祐の骸が乗せられている。
 遺体を覆うものなんてあるはずもなく。
 血と肉片にどす黒く染まった隊服が、圭祐の肌の白さを際立たせていた。

 分からない。
 圭祐がここまで戦った理由も、佐野が背を支えてくれる理由も、自分が苛立っている理由も。
 何も知らない。
 何も分からない。
 どうして分からないのかが、分からない。

 また俯く。目から涙は出てこない。ただ、初めて、憎しみを知った。





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