八.


「沙霧、沙霧。さっき老中の方々がお話していたのを聞いてしまったのですけど」
「隠密衆の件ですか?」

 徳川御三家・紀伊の由宇姫は小首を傾げて守り役の沙霧に尋ねた。
 琴を教えて欲しいと言われて教えたのはいいが、相変わらずこの姫様は技術よりも沙霧の異国の血が濃い容姿に目をトロンとさせるばかりで習得させるまでの道のりが遠い。手取り足取り教えて早一ヶ月、ようやく簡単な曲が弾けるようになってくれた。
 沙霧が琴を片付けて戻ってくる間に部屋の外をふらふらしていたのか、由宇姫は突然そんな話題をもちかける。

「龍華隊の方々は大丈夫なのですか……?」

 なにせ御年十二で隠密衆の熱烈なファンなのだ。女の園では隠密衆の話題など耳にも入ってこないが、姫様のレーダーは呆れるほど高性能だった。

「龍華隊は壊滅したと聞き及んでおりますが、まだ二隊ありますから」
「でも隠密衆は三隊でこそ隠密衆でしょう? 由々しき事態ではないのですか?」

 いっそ浄次に代わって姫様が舵を取ればいい───。
 直接どころか間接的にも関わりない少女がこれほど案じてくれるなら隊士も冥利に尽きるというもの。真摯な眼差しを受け取った沙霧は、由宇姫を安心させるように務めて穏やかに微笑んだ。

「ご安心なされませ。江戸に万が一の事が起こっても私が由宇姫をお守り致します」
「まあ……沙霧」

 ぽやん、という表現がぴったりなほど頬を紅潮させて見上げてくる。その脳内ではめくるめくロマンチックな妄想が繰り広げられているのだろう。
 姫様が我に返るまで十数分は手持ち無沙汰。
 夢を見ているであろうところへ無碍に「次はお習字の時間です」とは言いにくい雰囲気になってしまい、沙霧は笑顔を保ったまま仮面の下で盛大に溜息を吐いた。




「浄正殿! 今のは卑怯ではないのか!?」
「畏れながら戦いに卑怯も姑息もありませんぞ。勝利が全てだと再三申し上げているでしょう」
「僕は戦に行きたいのではない。剣術を身に着けて心身ともに強くなりたいのだ」

 それなら一日中腹筋でも走り込みでもやればいい。
 同じく尾張家・千早丸の剣術指南に日々精を出している浄正は、自分の指導が良すぎて四ヶ月で木刀から日本刀の稽古に移った十三の小僧を相手に姑息な手を使ってばかりいた。尾張に返して何と言われるかは知ったことではない。
 すべては若君の心身を鍛える為。
 その証拠に、成長期真っ只中の千早丸は初見の時よりだいぶ男らしい体つきになった。あのままのらりくらりと城の中で過ごしていては、今頃モヤシか白ネギにでもなっていただろう。

 稽古に区切りをつけ、縁台に腰を下ろした。
 上を見上げれば城の女達が好奇心に満ちた目でこちらを眺めている。当然、その中に沙霧の姿はなかった。同じ城の中にいてなぜか顔を合わせる機会がない。
 最近の沙霧は正装から着流しの軽装になっていた。隠密衆にいた時とほとんど変わらない格好ではまずいだろうと忠告すると、「姫のご所望で」。女の園でも好評らしい。
 それならば自分も堅苦しい袴ではなく軽装でいいかと千早丸に伺いを立てたのだが、「浄正殿のふんどしなど見たくない」と冷たい目で言われる始末。軽装と言ったのであって褌一丁になりたいとは言っていないが、稽古のたびにおじさんの褌がチラチラ見えるのはまだ受け入れられない年頃のようだった。

 今日の稽古は終わりだと告げると、千早丸は物足りなそうに渋々引き上げる。
 子守は毎日午前のみ。たまには遊郭へ行こうか、それとも衛明館に顔を出して───
 否、それだけはならんと首を振る。
 隠密衆の近況は従属の飛車から聞いていた。しかし自分の出る幕ではない。たとえ全滅の危機に陥ろうとも、今は『浄次の隠密衆』なのだ。

(なんつって、言い訳か)

 息子にも隠密衆にも過保護で子離れができない自分に失笑する。

「これはこれは元御頭殿。慣れぬ子守にお疲れのようですな」

 無心に廊下を歩いていたところで耳障りな声に呼び止められた。顔を上げれば老中・勝呂が陰湿な笑みを浮かべて近づいてくる。隆と同い年のくせにえらく年寄り染みて見えるのは張り合いのない職だからだろう。哀れなことだ。

「心労お察しいただき痛み入ります。勝呂様には人の心がお分かりのようだ」
「時に、崩落寸前の城のご子息は健在ですかな? 貴殿と違って繊細な神経をお持ちのようだ、寝てる間に首がぽろりと落ちねばいいが」

 浄次がこの男を苦手とする理由はこれだ。
 隠密衆の担当である閣老がその存在を嘲笑う。自分の代では有り得なかった主従関係だ。
 もっとも、当時の担当だった穂積が隠密衆の後ろ盾てになってくれた事は数えるほどしかなく、捉え方によっては一切擁護しない勝呂の方が数段まともだと言える。浄次には分からないだろうが、勝呂は完全に幕府の住人だ。しかし穂積は幕府にあって幕府の住人ではない。

「それはおかしな話ですな。首の心配をするのはお手前方でしょう」
「……何だと?」

 浄正は数歩踏み出して勝呂との距離を縮め、その厚顔に遠慮なく言葉の唾を吐いてやった。

「よく聞け小僧」

 袴もバカ丁寧な言葉遣いも我慢の限界だ。

「悪党ってのは金持ちの偉い奴が嫌いなんだ。その偉い奴に金で買われてる浪人集団なんぞ邪魔以外の何者でもない。噛み付く番犬がいなけりゃ幕府なんてただの老いぼれ爺の集まり、城を乗っ取るのは容易かろうよ」
「恥知らずの無礼者が……身の程を弁えろ」
「お前も身の程を知れ。隠密衆なくして今以上の出世はないぞ。口の利き方に気をつけろ」

 野心家は好きだが生意気は嫌いだ。ついでに城の天狗は大嫌いだ。
 脇を通り過ぎると勝呂の視線が背中に突き刺さる。浄正はあえて振り向かず、肩越しにひらひらと手を振った。

「無礼の詫びに一つ教えてやるよ。バカと犬は使いよう、だ」

 ここが殿中ではなく町中なら口笛のひとつも吹きたい心境だった。
 軽い足取りで角を曲がり、上機嫌に部屋へ向かう。


「…………」

 が、その足をぴたりと止めた浄正は袖に手を突っ込んだまま三歩ばかり後退した。

「何してるの、沙霧。気配なさすぎて銅像かと思っちゃったぞ」

 曲がり角に立っていた沙霧に気づかないほど清々しい気分だった事は認めよう。しかし待ち伏せていたのならウンとかスンぐらいは声をかけて欲しい。

「通りかかったら御頭と勝呂様の声が聞こえたので」
「回れ右しないで立ち聞きしてたわけね」
「失礼しました」

 失礼したとは露ほども思っていない顔で、沙霧はじっと浄正の顔を注視してくる。怒っているような拗ねているような、何とも愛くるしい顔だった。傍目には無表情に見えるが。
 いまだに自分を「御頭」と呼んでくれるこだわりも一途で気持ちがいい。

「なに、俺の渋かっこよさに惚れ直した?」
「閣老相手にあれだけ言えるのに、なんで普段はそうだらしないんですか?」

 むしろその発言の方が失礼だ。

「だらしないってお前ね……。『今すぐ抱かれたーい!』とか感じてくれたわけじゃないの?」
「そういう事を言うから嫌なんです」

 沙霧はにべもない口調で一瞥をくれ、すたすたと角を曲がっていってしまった。
 口に気をつけろと人に忠告している場合ではないかもしれない。



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