三. 日が傾き始めた頃、妻の光琉が大量の温泉まんじゅうを片手に帰ってくる。従業員と近所に配るのだと言ってバタバタと駆け回り、隆と命はその間おとなしくしていた。 帰宅早々に旅行はどうだっただの楽しかったかだの聞こうものなら、即座に「やかましい、ちょっと待ってな」の一言が飛んでくるのだ。命もそれは承知しているらしく、隆の膝へちょこんと座りながらちらちらと母親を見ている。 やることを済ませてようやく商売着に着替えてきた光琉は、藍色の風呂敷と別の小袋を揃えて隆の前に置いた。 「店番ありがと。衛明館にまんじゅう持ってきな」 「ありがとう、光琉。楽しかったかい?」 「寂れた旅館だって聞いてたのに豪邸みたいでびっくりしたよ」 命が小袋を手に取って匂いを嗅ぐ。 「おかあさん、これいい匂いがするよ?」 「あー何とかって言う香。名前忘れたけど皓司に渡して」 隆は息子の手からそれを取って同じように嗅いでみた。何か分からないが、皓司が好きそうな香りであることは確かだ。昼前に来たおかめと芸者の話をすると、光琉は「皓司が女装してくりゃいいのに」と事も無げに言う。 入ってきた客に店先から呼ばれ、立ち上がろうとした隆を光琉が制した。 「後はあたしがやるから戻っていいよ。命、手伝って」 「はぁい」 少しは寛げばいいのに、働くのも遊ぶのも好きな妻で苦笑するしかない。 隆は両親に暇を告げて店の裏口から出た。 城門を潜ったところで、葉桜の下をのんびり歩いている巴を見つける。 日中ほとんど出歩かない彼が外にいるということは刀匠に会ってきたのだろう。 しばらく黙って後ろを歩いてみたが、こちらの気配に気づく様子はまったくなかった。この分では衛明館に着くまで気づいてもらえそうにない。 「巴」 呼びかけると、彼は桜の木を見上げたまま足を止めた。木が喋ったと思ったのだろうか。 昨日の夕食後も隣で居眠りしていたかと思えば、浄次に尋ねられてすぐに淀みなく報告した。 沙霧といい巴といい、龍華隊は二代に渡って天然の上司で大変だなとおかしくなる。 「相変わらずぼんやりしてるなあ。二階堂さんには会えたかい?」 「ああ、はい」 冴希が目を付けた刀匠は瑠璃屋の上客でもあり、よく知っている人物だった。甘いものを持っていけと勧めた通り門前払いにされることはなかったらしい。もっとも、巴自身の掴みどころのなさが二階堂の興味をそそるであろう事は分かっていたのだが。 「殿下はどちらへ行かれていたんですか?」 突然そんな質問をされ、隆は内心で溜息をついた。 昨晩、実家へ一泊で帰ると広間で言ったのだが。それも巴の真横で。 「ぶらっと散歩してきただけだよ」 巴に悪気がないのはその純朴な性格から十分に理解できる。 人の話を聞かないわけではなく、人に対する興味がないのだ。人だけに限らず多くの物事に巴はあまり関心を示さない。 買ってきた菓子はどうだと聞けば、美味しいです、という風にお手本通りの答えが返ってくる。美味しくなければ自分には合わないとはっきり言うが、それだけだ。どこの店で買ったのかとも聞かなければ、何が入っているから苦手だとも言わない。 聞かれれば答える、聞かれなければ答えない───まるで遊女だ。 とはいえ郭の女達の方がよほど生き方を知っていよう。 衛明館に着くと玄関の周りを掃いている深慈郎が出迎えた。 その脇では祇城が黙々と雑草を毟っている。 「寒河江様、青山隊長、お帰りなさい」 「ただいま。二人とも掃除ご苦労様」 冴希は広間で障子の張替えをしていると聞き、宏幸あたりと喧嘩でもしたのだろうと想像する。 「お饅頭もらってきたから、きりのいい所で戻っておいで」 「奥様のお土産ですか? ありがとうございますっ」 深慈郎が急いで掃き出したのを見た祇城は、何だか分からないが急がねばならないと悟ったのか真剣な表情で雑草を毟る手を早めた。 そんな光景を見て巴が珍しく笑う。 儚そうな外見にそぐわず肉体は強靭。 その心は純朴でありながら、同時に無情でもある。 巴の性格が命取りにならねばいいと願いつつ、見上げた空には雨雲が差し掛かっていた。 江戸の入梅にはまだ遠く。 しかしここ数日は集中的な豪雨が続いた。降っては止み降っては止み、晴れ間が出るのはほんの一刻。梅雨時期の絡みつくような湿度がないだけましだろう。 天気を見計らって窓の手摺りに布団一式を干した甲斐は、その下から何か聞こえた気がして身を乗り出す。一階の玄関脇、生垣とも呼べない雑草の陰に黒い塊が見えた。 「不吉の子か」 階段を下りて風呂場から手拭いを数枚持ち出し、玄関の外へ出る。 雑草を掻き分けると黒い塊がさらに奥へ引っ込んだ。 「取って食おうってわけじゃないヨ。おいで」 「……何してんですか、班長」 賭場から帰ってきた隊士が不審な班長に驚いて足を止める。濡れた土の上に四つん這いの格好で格闘していた甲斐は、小汚い物体をつまんで立ち上がった。 「これが鳴いててネ」 「げっ、汚ねえ」 「猫が? おれが?」 「どっちも汚ねえですよ。早く風呂行って下さい」 濡れ鼠のような子猫を手拭いに包み、「失礼な人間だネェ」などと腕の中に話しかけながら館内へ戻る。その背を見送った隊士はとあることに納得した。 犬と猫なら下僕的な犬派だと思っていたが、意外にも自分の班長は猫が好きらしい。 道理で宏幸に寛容なわけだ。あれこそ猫以外の何者でもない。 「あーそういや班長、賭場で仕入れた情報なんですが」 隊士に呼ばれ、甲斐は框で立ち止まった。 「立浪組が新手の流派と手を組んで縄張りを広げるらしいですよ」 「ふうん、立浪がネェ。代替わりしたそばから精力的なことで」 「兵藤組が真っ向対決するようですが、どうしますかね」 「なら兵藤の動向次第だ。民間に飛び火するようなら三者とも潰せばいい」 それより猫ちゃんが、と言って気もそぞろに風呂場へ向かった甲斐を、隊士はひたすら不審な目で見送った。黒猫は不吉と言われるが、むしろ甲斐の頭の方が不吉に思える。 |
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