帰 花
五、
帰省した翌日の早朝、甲斐が家にやってきてうちの両親の前で丁寧に頭を下げた。
夜半に兄が息を引き取ったと告げられ、保智は呆然と口を開ける。
間に合ったのだろうか。話はできたのだろうか。
たった数時間の再会で別れが訪れた事を甲斐はどう思っているのだろう。
知人の商船が能登へ出航するとの事でそれに乗せてもらうらしく、保智はまだ寝ている姉と弟二人によろしくとだけ伝えて慌しく家を出た。甲斐は一緒に帰らなくてもいいと言ったが、自分は実家に用があったわけでもなく半年前に顔を出したばかりだから、と言い訳のように返して港に向かう。
「……葬式、出なくていいのか?」
「葬列に並ぶ為に帰ってきたわけじゃない」
それは確かにそうだ。
保智は自分の間抜けた発言に呆れて溜息を吐いた。
港に着くと、停留している七隻の商船すべてに弔旗が掲げられていた。
これから出航する乗組員の腕や頭に巻かれた黒布が風にはためく。
対馬海峡を渡って北上する間、乗組員のほとんどが口を閉ざしていた。一人が歌えば皆が歌うと言われる陽気な商船とは思えない。
甲板に並んだ荷箱の上に腰を下ろし、港を出てから一言も口を聞かない幼馴染の横顔をちらりと見遣る。甲斐は船縁に腕を乗せ、朝靄に覆われた本土の島影をただじっと見つめていた。目の周りが腫れていないと気づいたのは家に来た時だったが、よく見ればその下に影が浮き出ている。夜半に亡くなったのなら朝まで傍にいたのだろう。
昔は泣いてばかりだった。
いつから甲斐は自分に頼らなくなったのか。
頼って欲しいわけじゃない。むしろ今は甲斐の方がしっかりしていると思う。
けれど、誰にだって泣きたい時はある。大人も子供も関係なく訪れる悲しみにただひたすら耐える事が強さだというのなら、人生は思いのほか空しいものだ。喜びを喜びと知り、悲しみを悲しみと知ることの何が悪いのだろう。
こんな日くらい泣いたっていいのに、と思う自分は我が儘なのかもしれない。
行きと同じ着流し一枚の甲斐が白い息を吐いた。
日本海が冬の訪れを告げている。
「羽織、着るか?」
寒さを予想してきたわけではないが、荷物がかさばるので身に着けていただけの羽織を脱いだ。甲斐が緩慢な動きで振り返る。
「なんで?」
「なんでって……」
昨日も同じような会話をした気がして保智は溜息を零した。
甲斐は頼らなくなったのではなく、頼るという事を忘れたんだろうと結論に至る。
自尊心が強くなりすぎて人間の弱さを認めたくないのだ。それが結果となって人を当てにしなくなり、頼る手段を忘れたのだろう。人を当てにしてばかりいた昔が嘘のようだ。
「その格好じゃ寒いだろ」
「脱いだらヤスだって寒いでしょ」
どうにも調子の狂う会話に苛立ってくる。
「俺は別に寒がりじゃないし」
「ああ、脂肪がたくさんついてるから」
「……筋・肉・だ」
いつもの甲斐に戻ったかと思えばそれきり黙って受け取らないので、仕方なくその背に羽織を掛けてやった。海風に吹かれて袂が翻る。飛んでいくかと手を伸ばした瞬間、甲斐が襟を押さえて袷を掻き込み、すっぽりと羽織に包まった。
ゆっくりと進む船が日御碕を通り過ぎる。出雲だ。
断崖の向こうに白い大鳥居が見えた。紅葉した山々に囲まれ鎮座する本殿が姿を現す。
気のせいか、かすかに暖かい風が出雲大社の方から流れてきた。
白い綿のようなものが目の前をひらりと舞う。
「あ───」
思わず声を上げ、息を呑んだ。
「雪だ……」
はらはらと海上に舞い散るそれは淡い冬の花だった。
紅葉が咲き揃ったばかりの時期、暖かい風の中を雪が舞っている。
ザアッと強い風が吹き荒び、赤と白の花が一斉に出雲の空へ舞い上がった。
船足が止まり、誰からともなく海に黒布を投じ始める。
横なぎの風がそれを出雲へ運んでいき、出雲の風が空へと導く。
この夢幻の光景を隼人は見ているだろうか。
船縁に乗り出した甲斐が、赤い布に通した六文銭を海面へそっと放り投げた。
「兄さんの手に持たせてこようとしたんだけど」
渡したくなかった、と呟いた横顔から滴が落ちる。
本当に素直じゃない。
「また逢えるよ」
船が再び動き出す。
弔旗の先端に結ばれている黒布が名残惜しそうに肥前の方角へはためいた。
荷箱に腰を降ろすと、続いて隣に座った甲斐が頭をもたせかけてくる。
「眠い。着いたら起こして」
言うなり気が抜けたように全身で寄りかかってきた。
肩に腕を回して支え、ふと思い出して貸出中の羽織の袖をまさぐる。
「十二文銭じゃ多すぎるかな……」
捻った鉢巻へ六文を通して両端をきつく結んだ。
生まれ変わるなら、また人として生まれて欲しいと願う。
惜別の花が散ったこの海へ。
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