帰 花 -欒-





 衛明館はここ数日ひっそりとしていた。
 人が死ぬといつもこうだ。隊士であれその家族であれ、しばらくバカ騒ぎを禁じられる。
 といっても甲斐の兄はまだ死んでいないのだが、それも時間の問題だと皓司は言った。間に合えばいいが、という口ぶりから察するにいつ死んでもおかしくない状態なのだろう。
 保智に引っ張られるようにして衛明館を出て行った時の相棒の茫然とした顔を思い出し、宏幸はあれから何日経ったのか数える。

「そろそろ一週間だね」

 図ったように隆が口を開き、その隣で茶を飲んでいる皓司が相槌を打った。

「この分なら間に合ったのでしょう」
「だといいけど。甲斐があんな顔するなんて意外だったなあ」

 自分よりもっと前から甲斐を知っている隆でさえそう言う。
 甲斐が江戸を発った後、隊士全員にその事情が伝えられた。そうして余所余所しい空気が生まれたのだ。否、落ち着かないのは自分だけで他の隊士達は無関心だった。少なくとも甲斐の部下は平然としているし、自分の部下でさえ多少おとなしくしているものの普段と変わらない。
 身内の死といえば宏幸自身は母親を亡くしているが、何の記憶もない生後に死に別れたのだから家族を失うことの悲しみは知らなかった。しかし、たとえば父か姉が死んだら自分は悲しいと思うだろうか。あの凶暴な姉達の誰かが───

「あれとて人の子ですからね。随分とお兄さん子だったようですよ」
「へえ、そうなんだ。たしかお姉さんもいたよね?」
「お姉さんの方は食えない女性だと保智から聞いた覚えがあります」
「俺もそう聞いた。てことは甲斐に似てるんだな」

 一体どんな姉なのだ。宏幸は想像の限界を超えて頭を抱えた。

「宏幸はお姉さん子だから、甲斐とは逆だねえ」

 茶化すように笑った隆がぽんと頭に手を乗せてくる。その隆にだって姉がいて、嫁いだ今も時々会えば話が弾むほど仲がいいと聞く。皓司は長男で双子の弟妹がいて、いつぞやに衛明館へ来たが恐ろしいほど下品な弟と自分達を糞呼ばわりした口の悪い妹で驚いた。それでも兄弟の仲はいい。異常なほどに。
 仲のいい兄弟とはどんなものだろう。

「俺は姉ちゃん子じゃないっス。下僕扱いに腹立って出てきたくらいだし」
「でも『姉ちゃん』て呼ぶくらいだから本当は嫌いじゃないんだろう?」
「って、さらっと揚げ足取らないで下さいよ!」

 うっかり騒いでしまった。しかし広間で寝転んでいる者は誰一人突っ込まず無関心。
 やはり衛明館の空気が悪い。
 無駄に静かな広間は居心地が悪いと言っていた圭祐に同感だ。

「あの、ていうか俺あんま甲斐の家族の事とか知らないんスけど……」

 鬼姉の記憶を隅に追いやり、話題を戻してみる。
 事実、甲斐は身内の話をしてくれた事がなかった。入隊した当初に家族はいるのかと聞いたが、肥前に両親と兄姉がいて貿易商をやっていると畳み掛けるように教えてくれたきり。実家に帰らないのかと聞けば帰らないの一言。何でだと聞けばうるさいの一蹴。
 うちのように家族仲が悪いんだろうと思っていたが、そうじゃなかったらしい。

「あいつ、皓司さんとかには家族のこと話したりするんですか?」
「ほとんど聞きませんね。でもお兄さんは私に少し似ているそうですよ。というより私と殿下を足して割ったような人だとか」

 皓司と隆を割った人格とはどんなものか。むしろ兄の方が想像の限界を超える。

「とはいえある程度の情報は持ち合わせていますので、知りたい事があれば何なりと」

 食えない姉の方は皓司の女版みたいなものだろう。それもどうかと思ったが、宏幸はとりあえず知りたい事を思いつくままに尋ねてみた。

「お兄さんて、いくつ離れてるんスか?」
「十一ですから三十六歳ですね」
「結婚とかは?」
「奥様との間に十三歳と九歳の男の子が二人です」

 という事は甲斐は叔父に当たるわけで、相棒の嫌そうな顔が目に浮かぶ。

「あ、でも伝染病って子供達は……」
「奥様共々島原のご実家へ帰したようですよ。詳細は存じませんが」

 さすがに島原とはどこらへんだとも聞けず次の質問に悩んだ。

「甲斐って子供の頃は泣き虫だったらしいよ」

 保智から聞いたのだと言って隆が笑う。保智は口が堅い反面、誘導尋問に弱い。そうと知らずに要らぬ事を喋ってしまって後悔する姿は日常茶飯事だ。大方、隆もそのようにして聞き出したのだろう。

「あいつが……ちょっと想像つかないっスね」
「お姉さんのお下がりを着せられてたからよく人攫いに遭ったんだって」
「……それってお姉さんの子供の頃の話と間違えてないっスか?」

 甲斐が人攫いに遭うなど有り得ない。幼女を誘拐したとかの方がまだ信憑性がある。
 だが、よく考えてみればあの顔だ。間違えられても不思議はないかもしれない。
 本人のいない所で何だが、こうして周辺の事が分かってくると相棒に対する感情が少し変わったような気がした。あれでも血の通った普通の人間なんだなと思えてくるから家族の話というのは不思議だ。

「そういえば甲斐は一度も実家へ帰ってないよね。どうしてだろう、見栄かな?」

 保智は毎年帰ってるのに、と首を傾げた隆の横で皓司が笑う。

「天邪鬼なんですよ。会いたいのに本音を認めたくない臍曲がりです」
「断言したな。ははあ、さては皓司も身に覚えがあるんだ」
「ええございますとも。臍曲がりの上司ですからね」

 この二人はどんな時でも会話に事欠くということを知らないらしい。あの圭祐でさえ口数が減って気晴らしに我躯斬龍で部下を扱いているというのに。隊長はこうあるべきなのか、それともたまたまこの二人が浮世離れした変人なのか、宏幸には判断し兼ねた。


 二人が一寸会話を止めた時、玄関の戸音がカラリと響く。
 隆がその足音に耳を澄ませて笑った。

「噂をすれば何とやら。臍曲がりが帰ってきたみたいだよ」

 え、と口から出たのは不覚で、まだ心の準備がと慌てた自分に反して隆と皓司は同時に茶をひと啜り。隊長がこうあるべきというより、大物はこうあるべきだという事が分かった。
 相棒の噂話をしていただけにまともに顔が見れそうもない。ましてや最愛の兄の最期を見てきたのだろうから、ここは控えめにおとなしくしておかねばならない。考えているうちにどんどん気負ってボロが出そうだ。そういうところが自分の情けない部分だと自覚する。

「おかえりなさい、甲斐」

 二人のいる縁側の手前へ座り頭を下げた甲斐に、皓司が穏やかな声で言った。
 着いた日の夜に亡くなったと聞いてますます甲斐の顔を見るのが躊躇われる。
 会話のほとんどが耳に入ってこなかった。

「───していたのですよ。この宏幸が」
「はいっ! 俺が何ですか!?」

 急に名を呼ばれて反射的に顔を上げると、露骨に呆れた表情をした甲斐と目が合う。

「ヒロユキが毎日何してくれたって?」
「えっ、だから何の話……」
「貴方が甲斐のお布団を干して部屋の換気までしてあげていたという話ですよ」

 ああ、なんという素晴らしいタイミング───

「だ…そりゃアレよ、粉くせぇしなんか迷惑っつーか、居ねえうちにーみたいな……」
「うん。ありがとう、ヒロユキ」

 え、と口から出たのはまたも不覚で、心の準備以前にポカンと相棒を見返した。
 心労のせいか幾分痩せたように見える甲斐がふわりと微笑う。

「なーんてネ」
「……あ?」
「あからさまに気を遣われると癇に障るんだよネェ」

 目の錯覚だった。これはモナリザの微笑だ。

「まあネコユキに言っても分からないか、人間の話なんてサ」
「誰がネコユキだこの鬼畜がっ!」
「何をもって鬼畜というのカナ。おれがいつどこで何をしたっけ、ネコちゃん?」
「ネコネコうるせえんだよ我が儘ツンデレ変態野郎!」

 家族の話を聞いて甲斐に対する感情が変わったのは心の迷いに過ぎなかった。
 臍曲がりだか何だか知らないが人畜有害である事に変わりはないのだ。

「甲斐くん帰ってきたの?」

 我躯斬龍から戻ってきた圭祐が嬉しそうに駆け寄ってくる。そしてあろうことか甲斐に抱きついて広間の雑魚寝組に絶叫を上げさせた。いろんな意味で大物はこうあるべきなのか。

「おかえりなさい」
「ただいまケースケ。あれ、なんかホカホカしてない?」
「我躯斬龍で稽古してたんだよ。甲斐くんも今から一手どう?」
「お圭様モードならご勘弁」

 などと言いつつその気満々で羽織を脱いで広間を出て行くのだから天晴れだ。
 押し付けられた羽織を握り締め、宏幸はふとそれを眺める。

「おい甲斐、これおめーのじゃねえだろ」

 いかにも地味で相棒の悪趣味にはちっともそぐわない。何より少し大きすぎる。
 当の甲斐は誰のか忘れていたような顔で「ああ」と足を止めた。

「ヤスのだ。勝手に着せられたからずっと着てた」
「……? そいやあの木偶の坊はどうしたんだよ。一緒じゃねえの?」
「悪寒がするとかいって鼻水すすりながら部屋に行ったヨ」


 ───人はそれを、風邪という。










5話へ 終り
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