帰 花
四、
夕飯を終えて戻ると、眠っていると思ったその顔がこちらに向く。波の音を聞いていると安心するというので障子を開けたままにしてあり、遠い沖には彼方への道標のように点々と灯る漁火が見えた。日暮れより幾分風が冷たく、肥前も冬が近いのだと悟る。
「そういえば、隠密衆の服を着てきてくれなかったんですねえ」
「何、見たいの?」
私用の時でも隊服は許可されているが、なんとなく普段着の方がいい気がして着流し一枚で来た。おぼろに判別できるらしい兄がさも残念そうな顔をするので、隅に置いてあった自分の荷物を引き寄せる。
「じゃあ江戸の土産はおれの隊服姿ってことで」
「いま持っているんですか?」
「どこで何があるか分からないしね。これでも幕府にお仕えしている身ですから」
夕食時に跡継ぎの話で父と少し口論し、それに対して皮肉で笑ってみせたのだが兄には輪郭ぐらいしか見えなかっただろう。
隊服一式に着替え、鉢巻まで巻いて兄の顔に近づく。
「虎卍隊二班班長、麻績柴甲斐でございます。どう?」
兄の手を取って自分の顔に当てた。冷たい手のひらがゆっくりと頬を撫で、髪を撫で、鉢巻の尾を辿って背中から前襟へと滑る。鎖帷子をなぞり、首から顎へ、また頬へと戻ってきた。
「好い男になりましたねえ」
「そりゃ兄さんの弟だからね」
枕元の布に白湯を含ませて乾いた唇を湿らせる。血が付くと大変だから、と拒む兄の手を押し退け、十分に潤して木箱に捨てた。吐血したような量を含む褐色の布が何枚も入っていた。
数多の血を見て何も思わなかった自分が、ただ布に染みた血に懼れを抱く。
それはどんな苦しみだろう。
兄の胸に額をつける。夜の浜を打ち鳴らす漣のような穏やかな鼓動が伝わってきた。
生きていることの証。
死にゆく宿命の音。
「兄さん」
途絶える瞬間の、最後のひとつが怖い。
「もし辛いなら、おれが」
いっそこの手で止めてしまえば───
「どうしてですか?」
兄の手がふわりと頭に添えられた。
「甲斐の顔を見られて嬉しいと思っている私が、どうして辛いのでしょう?」
辛いのは自分。辛いのは取り残される方。
一度も兄と酒を飲み交わした日がない。
馬鹿な連中と日々交わしている酒のたった一滴でも、兄との杯だったなら。
くだらない冗談のたった一言でも、兄との会話だったなら。
「先に死ぬのはおれだったのに」
だから、いつでも帰れると思っていた。
だから、いつでも会えると思っていた。
どんな死に方をしようとも、いつかこの魂は故郷へ帰るだろうと。
漣が静かに引いていく。
港の教会の鐘が風に鳴く。
海よ、風よ、その凪ぎを押し返してくれと願う。
暗い海の底へ消えないでくれと祈る。
希う者の為の島ではないのか。
それに侵されれば三日ともたずに死ぬ。
兄の身体はとっくに死んでいた。
死に寄り添い、日に日に消えゆくわずかな命を残し、波音を足音に数えて。
「ずっと、君を待っていたんですよ」
ただそれだけの為に、兄は六日間を凌いだ。
冷たく温かい手がひたと頬に触れる。
「会えてよかった」
会いたくなかった。
でも会いたかった。
会いに来なければならなかった。
会いに来て、よかった。
「さよなら、隼人兄さん」
おやすみと言えばあなたが目を覚ますまで待つだろうから。
待つ事の苦しみと果てを自分の中に知ってしまったから。
その時間には耐えられない。
「さようなら、甲斐」
小さな漣が返ってくる。
「生まれ変わっても、また私の弟になって下さいね」
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