帰 花


三、


 東海道を抜け、西国街道をひたすら下ってその先の下関へ。関所を越えることさえ難しかった十四の頃が嘘のように、道はどこまでも繋がっていた。関門海峡を渡る。江戸より暖かい気候のせいか海上にはまだ海鳥の姿が多く見られた。
 肥前に近づくにつれ、三峰五岳・雲仙の稜線がくっきりと浮かび上がってくる。
 山と海に囲まれた断罪の島、天領長崎。

 帰ってきたという感慨は湧いてこなかった。
 まったく知らない土地に来たのでもない。
 ただどこか白々しいと思うのは、秋の侘しい景色ゆえだろうか。
 帰りは船に乗りたい。
 まだ着いてもいないのに、すでに帰る事しか考えていなかった。



「俺は実家に泊まってるから……その、一人で大丈夫だよな?」

 家が見えてきたところで保智が足を止める。三叉路の左坂を上がっていけば能醍の家があり、まっすぐ行けば麻績柴の家がある。そのずっと向こうに海が広がり、周囲に点在する島影がうっすらと霧に包まれていた。
 何も変わらない道、何も変わらない空。
 どこかにぽつんと取り残されたような気がして、あたりを見回す。
 穏やかな海風に吹かれ、すすき野原がさわりと揺れた。

 ───甲斐

 兄の声がする。
 ああ、帰ってきたのか。
 飛びつくといつも潮の匂いがする。港の生臭さではなく、広い海の匂い。
 自分の知らない世界を知っている兄が羨ましく、同時に尊敬していた。
 近い年に生まれていればもっと兄を知ることができただろうか。


「ただいま」

 潮風で痛んだ木戸を開けると、桶を手にした姉の由華と鉢合わせた。

「まあ甲斐。どうなさったんですの、そんなに背が伸びて」

 どうしたとはこっちが聞きたい。

「松浦に嫁いだんじゃなかったんデスか、姉さん」
「離婚して参りましたの。老いた政治家とは話が合いませんわ」

 平戸の藩主に見初められて側室ながら玉の輿かと思えばこれだ。男のいいなりになるくらいなら自分で稼ぐという気性は母に似たのだろうが、それを実行して港の手伝いをしていた昔の母と違って姉には取り巻きが大勢いる。大方貢がせて暮らしているのだろう。

「兄様に会いにいらしたんですの?」

 そう言った姉の手の桶を眺めて、兄のものかと気づいた。
 行き違いにはならないと曖昧に断言した幼馴染の勘も案外アテになるようだ。

「保智に説得されましてネ」
「まだ保智さんの腰巾着なんですのね」

 聞き捨てならない台詞だったが姉に絡んでいては埒が明かない。両親は居間にいると聞いてまずはそっちに向かった。
 家の中が狭い。そう感じるのは背が伸びたからか。
 途中で柱に刻まれた線を見つけ、その跡を指でなぞる。父が三年ごとに兄弟の背を測って削ったものだ。三本線の一番下はいつも自分だった。十三歳で終わっている自分の印の少し上に姉の印があり、兄の印は遥か上。当時の兄は二十四だから今の自分より一つ下だ。
 それは、甲斐の目線よりわずか下方に刻まれていた。
 越えたことに喜ぶべきなのだろうが、姉はともかく兄を見下ろすのは嫌だなと思う。

 両親に挨拶し、兄の部屋へ行った。
 病名は不明だが今朝鮮の一部で流行している。一ヶ月前に朝鮮へ立ち寄った際にひどい風邪を引き、処置器具から感染したのだろうと言っていた。潜伏期間は他の伝染病に比べて長く、三週間から四週間。疑う余地はなかった。何の自覚症状もないまま突然発症し、血液のみを媒介して人に感染する。労咳のような飛沫感染でなかったのは幸いと思うべきか。
 発症したのは皓司から聞かされた三日前あたりで、今日を含めるとすでに六日目。



「兄さん、入るよ」

 障子を開けると強い海風が吹きつけ、廊下に流れていく。
 真っ先に目に飛び込んできたのは庭の向こうに広がる青い大海原だった。

「……甲斐?」

 視線を下方へ移すと、生気のない顔をした兄が布団の中でゆっくりと瞠目する。
 記憶の中の兄が一瞬で消えた。
 海へ出ても父のように潮焼けしないのだと笑っていた白い肌は水分を失って乾涸び、土気色に変わっている。布団の上に置かれた手は老人のようだった。兄の面影など一つも残っておらず、あるとすればその声だけ。

「見違えるほど大きくなりましたねえ」

 痩せ衰えた身体に不釣合いなほど兄の声は普通で、昔と変わらずおっとりしていた。
 笑った拍子にかさついて膜を張った唇が裂ける。じわりと滲み出した血を見て、思わず触れそうになった。

「駄目ですよ。血が不浄なのだそうですから」

 兄はそう言って枕元に積み重なった布の一枚を唇に当て、しばらく押さえてから蓋つきの小さな木箱へ捨てる。開けた時に少しだけ中が見えた。
 呆然と布団の傍らに膝をついたまま、自分の身の芯が凍てついていくのを感じる。この目で見るまではもう無理だと思っていて、けれど帰ってくればもしかしたらそれほど重篤でもないんじゃないかと期待していたことを思い知らされる。
 裏切られた───その重みは言葉を失うのに十分だった。

「長いこと会っていないのに、懐かしい気がしないのはどうしてでしょうねえ。年に一度、保智が君のことを話しに来てくれていたからでしょうか」

 保智は一緒なのかと聞かれて頷く。涙さえ出てこない。手足の感覚がなくなり、考えることすら許されず、ひたすら兄の目を見ることしかできなかった。
 まだ血が滲む唇をぺろりと舐め、兄は数日にして骨と皮になった指で足元を差す。

「一番上の抽斗に入っているものを取って下さい」

 戸棚の扉を開けて一番上の抽斗を出すと、細長い包みと巾着が入っていた。両方を兄に渡しながら、いいんだろうかと逡巡する。

「身体に障るんじゃないの?」
「私のじゃありませんよ。保智が、甲斐はときどき煙管を吸うと言っていたので」

 そんな事を話して何になるのだろう。口下手な幼馴染のことだから話題に困ってどうでもいいような話ばかり置いていったらしい。
 包みを開ける、ただそれだけのことが今の兄には満足にできず、小刻みに震える指先を見兼ねてその手から取り上げる。紐を解いて広げると見覚えのある柄がそこにあった。

「兄さん、これ……」
「君の腰物とお揃いの煙管です。刀は大昔に買い付けたのに、その煙管は三年前に見つけたんですよ。同じ職人が作ったのでしょうねえ、粋な柄ですから」

 金細工が施された朱塗りの煙管は甲斐の直刀の鞘とまったく同じものだった。巾着には葉と手入れの小道具が入っているからと、それを手に載せられる。

「お土産です。持っていきなさい」

 江戸で何か買ってくればよかった。
 買ってきたところで兄にはもう何も必要ないのだと思えばこそ、何かを。
 どんどん後悔の深みに嵌っていく。

 日が落ち始め、兄の横顔に金色の光が差し込んだ。
 眩しいだろうと思い、障子を閉めようかと聞く。
 兄は静かに首を振った。
 ほとんど光が見えないから大丈夫だと言って。







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