帰 花
二、
隆に頼まれて城下へ遣いに行っていた保智は、玄関の戸を開けたところで足を止めた。
朝食と昼食の間は人の出入りもほとんどなく、まして遠征の翌日。隊士達は広間か自室でくつろぎ、厨房仕えの者達は専用の部屋で休憩を取ったり勝手口から買出しに出かける。
わずかに東の陽が差し込む閑散とした廊下の手前に見慣れない光景があった。
「甲斐……?」
荷物の間に埋まるようにして座り込み、頭を抱えている幼馴染の姿にぎょっとする。
何かの悪戯かと疑うほどそれは珍しいとも有り得ないとも思える異様な様だった。
「腹でも壊したのか?」
意味もなく足音を立てないように気をつけ、そっと近づいてみる。返事はなかった。こんなところで眠るような性格ではないし、出かけようとして具合が悪くなったのだろうかと考える。相方の圭祐ならこういう時もっと上手く立ち回れるのだろうが、想像力も乏しければ機転も利かない自分はただそのままに受け取ることしかできず、途方に暮れた。
「……た」
「え?」
聞き取れないほど小さな声で喋られ、俯いたその頭に耳を寄せる。
「悪い、よく聞こえなかった。何だって?」
沈黙。
黙られてしまったらこちらも黙るしかない。誰か来てくれないかと願ったが皆疲れているのだろう、普段ならうるさいほどよく聞こえてくる広間の話し声も今日は静かだ。放っておくのもこの状況では難しい。人を呼びに行けばいいのだろうが、事情も分からないのにうっかり都合の悪い人間を呼んできてしまったら困る。
とりあえず履物を脱いで框に上がり、甲斐の前に膝をついた。
「何があったんだ?」
「兄さんが致死性の伝染病に罹った」
はっきりと聞こえたその声よりも、何の事か瞬時に判断できず頭が真っ白になった。
「……致死性の、伝染病?」
「潜伏期間が長かったんだろうって。急に」
俄かにごちゃごちゃし出した頭の中から必要な情報を探る。
しばらくして、ああそうかと思い当たった。
母親と姉の板挟みでしょっちゅう苛められていた甲斐は兄の隼人にべったりだった。子供の頃の話だが今でも兄を慕う気持ちは変わっていなかったのだろう。甲斐にも人の子らしい一面が残っているんだなと実感し、保智は我知らずほっとする。
「それで、どうするんだ。帰るのか?」
再び沈黙。よほど堪えているらしい。
思えば隠密衆に入ってから甲斐は一度も家族のことを話さなかった。自分は年に一度だが暇を見て肥前へ帰っている。一緒に行くかと聞けば返事は毎回行かないの一言で、それはそれで別にいいと思っていた。麻績柴の家は実家の近くだから自分が立ち寄って近況を話してくれば済む事だ。そのせいというわけでもないだろうが、甲斐は結局一度も故郷に戻っていない。家族から聞いた話を伝えても生返事でまともに聞いてくれた事すらなかった。
本当は、帰りたかったのかもしれない。
「なあ甲斐、斗上さんから聞いたのか?」
俯いている頭が縦に動いた。
「それじゃ休暇もらえたんだろ?」
また縦に動く。
あまりにらしくなくて別人と話しているようだった。保智は頭を掻き回し、次になんと言えばいいのか必死で考える。しかし口から出たのは知恵も働かない言葉。
「……帰った方がいいんじゃないか?」
「なんで?」
「なんでって……だって隼人さんが」
甲斐が顔を上げた。泣いているのではと思ったその頬には涙の跡もなく、表面は思ったよりしっかりしている。
「江戸から肥前まで何日かかるんだ? 着いた頃には死んでるかもしれないし、どの道結果は変わらない。無駄足を踏むのは嫌だ」
自尊心、なんだろうか。
だとしたらそれこそ今もっとも無駄なものだろうと保智は思う。
相変わらず幼馴染の考えていることがよく分からない。
ただ一つ、これだけは確信を持って言えることがあった。
「今まで帰らなかったこと、後悔してるんだろ? そういう顔してる」
三度目の沈黙。肯定。
どうしてここまでして素直になれないんだろう。人のことを馬鹿正直だと笑うくせに、自分は素直さのかけらもない。頭の回転が速いのは認めるがややこしい性格だ。
「結果が同じなら、そうだと分かってるなら、全部自分の目で見てこいよ」
「えらくまともなこと言うね」
「あのな……冗談言ってるわけじゃないんだぞ」
冗談だったらいいのに、と呟いて虚空を見つめるその目は死んだ魚を連想させた。
昔から魚の目が苦手で釣りもしたことがない。食膳に並ぶ魚は真っ先に頭を切り離して味噌汁に浸けてしまう。虚ろに開いた魚の口が恨み言を言いそうで、目は口ほどに物を言うではないがあの不透明な眼球を見るだけでもぞっとするのだ。
だが甲斐の心境を思うとそんな顔をしないでくれとは言えず、腹の底から溜息を吐いた。
「甲斐、肥前へ帰ろう。俺も一緒に行くから」
虚ろな視線が自分に向けられ、ぼんやりと焦点が合う。
「もし行き違いになったら」
「ならないよ。……多分、根拠はないが」
「どっちなんだよ」
「……いいから用意しろってば。立てるか?」
「立てない」
いや、嘘だろう。
胸倉を掴んで立たせると乱暴だの服が乱れただのと非難の嵐。その背を叩いて広間へ押しやり、ちょうど隆と皓司が話しているところへ割り込んだ。甲斐の付き添いで自分も休暇が欲しいと言うと、隆は二つ返事で了承してくれる。
「頼んだよ、保智。期日は設けないから二人ともゆっくりしておいで」
不在の間に遠征が入ったら氷鷺隊と虎卍隊を合同にしてもいいしね、と提案する隆に、皓司はにこりともせず宏幸がお圭様の餌食になるだろうから遠慮しますと返した。それを聞いた宏幸がいつものように暴れ出し、騒々しい日常が戻る。
ちらりと隣を見遣ると、甲斐は皓司に頭を下げて広間を出て行った。
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