帰 花





まだ見ぬ春に恋焦がれ


天から地へと狂い咲く


ただひとたびの


夢幻奏







一、


 江戸に来て何度目の秋だろうか、風に吹かれた紅葉が濡れ縁に色を落としていく。風車のようにくるくると回りながら飛んできた一片が圭祐の頭に着地した。向かいで熱心に本を読んでいる当人は気づかず、その姿もまた風流かなと思う。

「可愛いネェ」

 野良猫でも来たのかと思ったらしく、圭祐が顔を上げて庭を見渡した。

「え、何が?」
「ケースケが。頭に紅葉が載ってるヨ」

 きょとんとして自分の頭に手をやり、それに気づいて少し恥ずかしそうに笑う。
 昨日の遠征で隊士の尻を蹴り飛ばしていたのが嘘のようだ。戦場に立つと性格が豹変する圭祐はその事に自覚がなく、最中は隊士達から「お圭様」などと呼ばれている。「お圭様」の方は普段の自分に自覚があり、いわゆる二重人格というやつだった。
 生い立ちに由来するのだろう。入隊当時の圭祐を髣髴とさせる狂気染みた言動は隆の手で封印されたかのように見えたが、戦では変わらなかった。ただ、罵りながらもきちんと班をまとめていることは素直に感心する。

「栞にしようかな」
「挟む前にそのペースじゃ読み終わっちゃうデショ」
「まだ何巻もあるんだよ。これは四巻目」

 巴から貰ったという三国志に夢中の圭祐は、遠征の合間にも一冊読み終えていた。大した読書家だ。巴が本を読むタイプには見えなかったが、本人曰く暇つぶしに買っておいたのだという。しかし暇さえあれば自室で死んだように寝ている巴にはやはり無用で、捨てようと思っていたところを圭祐が貰い受けたらしい。

「甲斐くんも読む? 面白いよ」
「昔読んだヨ。水滸伝と混乱した」

 水滸伝はどんな話かと聞かれて説明したが、途中で三国志と混ざって笑われた。圭祐のような文学派じゃない脳みそに物語を読ませても記憶力はこの程度だ。

「水滸伝なら私が持っていますよ」

 足音も立てず自分の背後に現れた皓司が頭上でそう言い、圭祐がさらに顔を上げる。

「といっても先代の家にあるのですが、読むならお貸ししましょうか」
「読みたいです! あ、先代にご迷惑でなければ僕が取りに行きますけど」
「構いませんよ。近日上野へ出向くついでがありますから」

 上野へ用事というのは口実だろう。上手い性格だと内心で嘆息した。
 その皓司が、通りすがりかと思いきや自分の肩を叩いて呼ぶ。

「甲斐、お話があるのでいらっしゃい」

 見上げると圭祐に向けていた柔和な声はそのままに、表情だけが少し変わっていた。あまり喜ばしくない話題のようだ。阿呆を地で行く宏幸と違って説教されるような事はしてないはずだが、壁に耳あり障子に目あり、皓司の知らぬ事などこの世には何一つない。隊士が集う広間で言わないのなら彼にとっても面白い話じゃないのだろう。
 立ち上がって縁側を後にし、玄関に続く廊下へ出る。
 遠征から戻ってきたのが夜遅かったせいもあり、いくつかの大荷物が上がり框の脇に置きっ放しになっていた。その全部が宏幸の班のものだ。

「……話ってこの荷物のことデスか?」

 相棒の尻拭いなど真っ平ご免だ。自分には何の責任もない。
 あからさまに不平な顔をして見せると、皓司はそれに一瞥をくれて首を振った。

「違いますよ。貴方のお兄さんの事です」






 信じられないわけではなかった。
 貿易商売をしていれば誰にだって起こり得る事。
 海を渡り、異国の港に出入りし、様々な人間と関わればむしろ今頃かと思う。

 今頃。

 なぜ、兄だったのだろう。
 なぜ、兄でなければならなかったのだろう。
 何十年も海を行き来してきた父でなく、なぜ兄だけなのだろう。

 最後に顔を見たのは肥前を出た夏の夜よりもっと前だった。父と船に乗り何十日も帰ってこない事がほとんどで、十一歳も離れていれば兄弟で遊ぶ事もなかった。
 毎日毎日、父と兄の船が見えないかと港で待っていたことを思い出す。
 生臭い海水の匂いと照り付ける太陽の眩しさが記憶から蘇る。

 いつでも帰れると思っていた。
 だから一度も帰らなかった。

 いつでも会えると思っていた。
 だから会いにいかなかった。

 後悔という言葉がこんなにも身を裂くものだと、初めて知った。







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